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次の文章を読んで、あとの各問に答えよ。
以前、興味深い話を聞きました。鉄筋コンクリート造の団地で生まれ育った小学生がはじめて田舎にある旧来の日本家屋に行ったときの話です。瓦屋根の下、縁側に寝そべり、庭や遠くの山並みを見ながら彼はこう言ったそうです。〝懐かしいね〟と。彼にとってみれば未知の新しい場所なのですが、すでに体験したことのある場所のように感じているかのようです。それはDNAに刷りこまれた風景なのか、あるいは幼少期に見聞きした日本昔話の絵本の画がずっと頭にあったからなのかわかりませんが、いずれにせよ琴線に触れる、情感溢れた実体的な場所に出会うことで記憶の回路がつながったのではないでしょうか。(第一段)
ポルトガルに旅行したことがあります。はじめて行く国、はじめて行く場所だったのですが、そこで見た風景や人の営為はとても〝懐かしい〟と感じたのです。これも自分の中に潜在的にあった記憶の断片のようなものがつながったからでしょう。かつて自分の身の周りにあったけれどもいまは失われてしまった風景や人の営為がポルトガルにはまだある、という切ない喪失感もともなっていたように思いますが、しかしそれ以上にこの場所に出会えてよかったと思う喜びの感情がはるかに大きかったように記憶しています。そんな懐かしさの感情を抱くことができれば、その新しい場所は慣れ親しんだ馴染みのある場所になります。するとそこに安心感と寛容さを感じることができます。(第二段)
(1)そんな団地の小学生の話やポルトガルでの体験は、複合的で抽象的な懐かしさということで共通しています。場所や空間における〝新しさ〟と〝懐かしさ〟は隣り合わせであるということや、人の記憶の回路をつなぎ合わせることができる伝統、慣習が根付いた実体的な空間、場所の尊さと力強さを感じさせます。そしてまだ自分が訪れたことのない世界にも懐かしい場所は存在していて、それを発見できるということの喜びと可能性も感じさせてくれます。(第三段)
一方、何十年かぶりに故郷に帰って食べる料理や、顔を合わせる家族、親戚や友人、そしてあらためて眺める風景に、直接的で具体的な懐かしさを感じる場合も多いでしょう。しかし久しぶりに出会う懐かしいものは以前出会ったものとは、正確にいえば異なっています。物理的な経年変化があるからではありません。それは自分自身が時間や経験を積み重ね、大きく変化したということなのです。例えば、当時は母の味や郷土料理、故郷の風景が好きではなかったのに、その後の時間の中で経験してきたことを客観的に相対的に重ね合わせてゆくと、実はこんなにも美しく、美味しく、尊いものだったのだということに気づいた経験は誰にもあるのではないでしょうか。それは自分の感情や視点がいまと昔では大きく変化したことで、久しぶりに出会うものや人の〝質〟や〝価値〟さえも自身が変えたということなのだと思います。〝平凡〟を〝非凡〟に変えたといってもいいでしょう。そしてその進化した感情、視点によって、伝統や慣習の中にある、人、営為、原風景を〝誇り〟に思うことができるようになっているのです。(2)懐かしいという感情によって人生の中で新たな価値を見出したのです。それは懐かしさという感情の素晴らしい働きです。さらにこの〝誇り〟という感情はとても重要です。なぜなら人は、誇りに感じるものは自然と大切にしようとするからです。(第四段)
人は記憶を頼りに生きてゆく動物と言われています。言い方を換えれば、懐かしさのような記憶に関わる情緒抜きでは人は生きてゆけないということです。懐かしさは、視覚だけでなく触覚、聴覚、嗅覚、味覚といった五感をともなった記憶が呼び起こされ、それと向き合うことでいまの自分の肉体、存在、歴史、居場所を肯定することができ、気持ちが未来にひらかれてゆく前向きで大切な感情と言われています。それが証拠に、人は負の感情を抱くものに出会ったときには決して懐かしいとは感じません。懐かしいものや人に出会ったときに、人は自然と笑みを浮かべていることが多いでしょう。懐かしさとは人の〝正〟の、そして〝生〟の感情なのです。(第五段)
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しかし、どうも私たちは懐かしさに対して認識を誤ってしまうことが多いように思います。〝懐かしの昭和〟〝郷愁誘う町〟〝懐かしのおばあちゃんの味〟。それらの言葉からは〝昔はよかった〟という懐古的な眼差ししか感じられず、前向きな姿勢や未来への可能性のようなものはあまり伝わってきません。過去は過去のものとして缶詰に閉じ込めたような、博物館のケースの中に入れた展示品のような扱いにされてしまっています。また町づくりや建築においても懐かしさや郷愁のイメージをわざと誘うようなものも見受けられます。それら固定的な〝懐古の商品化〟や〝郷愁のパッケージ化〟は、かえって人のイマジネーションを閉ざしてしまう危険をはらんでいます。(第六段)
さて私たちは戦後、〝変わること〟が豊かさと明るい未来を手に入れることだと信じてきました。もちろん変わらなければならないことも多々あったと思いますが、〝変えるべきこと〟と〝変えなくてもいいこと〟を整理せずに急進的に走り続けてきたように思います。急速な変化は自然風土やかけがえのない人の営為を壊し、人の記憶にとって大切な〝原風景〟を奪ってゆきました。懐かしいという前向きな感情を抱く間も許されていなかったかのようです。またいま、人が毎日ほとんどの時間見つめているものはスマホやコンピュータのモニターの奥に広がる膨大なデータの世界です。それらは人の情報処理能力をはるかに超えるスピードで膨張し、そして更新されてゆきます。(3)そんな中、私は世の中が更新し続けるもので埋め尽くされてゆけばゆくほど建築こそは動かずにじっとしていて、慣れ親しんだ変わらない価値を示すものでなければならないという思いを強くしてきたのです。言い換えれば、建築さえも急進的に更新し続けるだけの存在になってしまったら、人は何を記憶の拠り所にしてゆけばいいのかわからなくなってしまうのではないでしょうか。(第七段)
(堀部安嗣「住まいの基本を考える」による)
〔問1〕 |
(1)そんな団地の小学生の話やポルトガルでの体験は、複合的で抽象的な懐かしさということで共通しています。とあるが、「複合的で抽象的な懐かしさ」とはどういうことか。次のうちから最も適切なものを選べ。 |
ア |
未知の事象がもつ情感と潜在的な記憶がもつ情感が重なり合うことで思い出される、幼少期の記憶から生じる懐かしさのこと。 |
イ |
未知の場所との出会いから生じる喜びと情感溢れる場所の記憶から生じる郷愁との比較を通して、心に浮かぶ懐かしさのこと。 |
ウ |
未知の風景を前にして感じる、かつて住んでいた町の失われた景色に対して抱いた喪失感から生じる懐かしさのこと。 |
エ |
未知のものと出会うことによって、潜在的に存在する様々な記憶の断片がつなぎ合わされて湧き上がる懐かしさのこと。 |
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〔問2〕 |
(2)懐かしいという感情によって人生の中で新たな価値を見出したのです。とあるが、「人生の中で新たな価値を見出した」とはどういうことか。次のうちから最も適切なものを選べ。 |
ア |
経験を積み以前とは異なる視点をもつことで、久しぶりに出会ったものにこれまで気付かなかった魅力を感じるようになったということ。 |
イ |
自分の経験から得たものの見方で目の前の事象を見直すことによって、伝統や慣習にとらわれない新たな価値を見付けたということ。 |
ウ |
前向きで大切な感情を伴う過去の記憶に導かれるように、周囲にあるものにかつて抱いていた誇りがよみがえってきたということ。 |
エ |
久しく出会うことができなかったものに対して、時間が経過してもそこに見出していた魅力を改めて感じることができたということ。 |
〔問3〕 |
この文章の構成における第六段の役割を説明したものとして最も適切なのは、次のうちではどれか。 |
ア |
それまでに述べてきた懐かしさに関する説明について、筆者の認識の根拠となる事例を挙げることで、自説の妥当性を強調している。 |
イ |
それまでに述べてきた懐かしさに関する説明に基づいて、筆者が述べた内容を要約し論点を整理することで、論の展開を図っている。 |
ウ |
それまでに述べてきた懐かしさに関する説明を受けて、筆者の認識とは異なる具体例を示すことで、文章全体の結論につないでいる。 |
エ |
それまでに述べてきた懐かしさに関する説明に対して、筆者の主張と対照的な事例を列挙することで、一つ一つ詳しく分析している。 |
〔問4〕 |
(3)そんな中、私は世の中が更新し続けるもので埋め尽くされてゆけばゆくほど建築こそは動かずにじっとしていて、慣れ親しんだ変わらない価値を示すものでなければならないという思いを強くしてきたのです。と筆者が述べたのはなぜか。次のうちから最も適切なものを選べ。 |
ア |
未来への前向きな意志をもつことが難しい世の中ではあるが、建築だけは、懐かしさや郷愁を印象付けることが必要であると考えるから。 |
イ |
急速に物事が更新され続ける現在において、変わらずそこにあり続ける建築は、人の記憶の原風景となり得る存在であると考えるから。 |
ウ |
建築においても、〝変えるべきこと〟と〝変えなくてもいいこと〟を整理し、新たな建造物には懐古的な工夫が必要であると考えるから。 |
エ |
明るい未来を築くためには変化を止めることが重要であり、不変の象徴として建築を位置付け、人々の意識を向けさせたいと考えるから。 |
〔問5〕 国語の授業でこの文章を読んだ後、「自分の『記憶の拠り所』となるもの」というテーマで自分の意見を発表することになった。このときにあなたが話す言葉を、具体的な体験や見聞も含めて二百字以内で書け。なお、書き出しや改行の際の空欄、〝 、〟や〝 。〟や〝「 〟などもそれぞれ字数に数えよ。