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次の文章を読んで、あとの各問に答えよ。(*印の付いている言葉には、本文のあとに〔注〕がある。)
目覚ましをセットした時刻を三十分も過ぎている。知らないうちに止めて、またうとうとしてしまったらしい。慌ててパジャマのまま台所へ飛んでいくと、ヨシ江が洗い物をしているところだった。
「シゲ爺は?」
「ああ、おはよう。」
「おはよ。ねえ、シゲ爺は?」
「さっき出かけてっただわ。」
「うそ、なんで?」
ほんのちょっと声をかけてくれたらすぐ起きたのに、どうして置いていくのか。部屋を覗いた曾祖父母が、〈よーく眠ってるだわい〉〈可哀想だからこのまま寝かせとくだ〉などと苦笑し合う様子が想像されて、地団駄を踏みたくなる。
「どうして起こしてくんなかったの? 昨日あたし、一緒に行くって言ったのに。」
するとヨシ江は、スポンジで茶碗をこすりながら雪乃をちらりと見た。
「起こそうとしただよぅ、私は。けどあのひとが、ほっとけって言うだから。」
(1)「……え?」
「『雪乃が自分で、*まっと早起きして手伝うから連れてけって言っただわ。こっちが起こしてやる必要はねえ、起きてこなけりゃ置いてくまでだ』って。」
心臓が硬くなる思いがした。茂三の言うとおりだ。
(2)無言で洗面所へ走ると、超特急で顔を洗い、歯を磨き、部屋へ戻ってシャツとジーンズに着替えた。ぼさぼさの髪をとかしている暇はない。ゴムでひとつにくくる。
土間で長靴を履き、
「行ってきます!」
駆け出そうとする背中へ、ヨシ江の声がかかった。
「ちょっと待ちない、いってぇどこへ行くつもりだいや。」
雪乃は、あ、と立ち止まった。そうだ、今日はどの畑で作業しているかを聞いていない。
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「そんなにまっくろけぇして行かんでも大丈夫、爺やんは怒っちゃいねえだから。」
ヨシ江は笑って言った。〈まっくろけぇして〉とは、慌てて、という意味だ。目の前に、白い布巾できゅっとくるまれた包みが差し出される。
「ほれ、タラコと梅干しのおにぎり。行ったらまず、座ってお食べ。朝ごはん抜きじゃあ一人前に働けねえだから。」
「……わかった。ありがと。」
「急いで走ったりしたら、てっくりけぇるだから、気をつけてゆっくり行くだよ。雪ちゃんが後からちゃーんと行くって、爺やんにはわかってただわい。いつもは出がけになーんも言わねえのに、今日はわざわざ『ブドウ園の隣の畑にいるだから』って言ってっただもの。」
再びヨシ江に礼を言って、雪乃は外へ出た。
あたりはもう充分に明るい。朝焼けの薔薇色もすでに薄れ、青みのほうが強くなっている。すっかり春とはいえ、この時間の気温は低くて、息を吸い込むとお腹の中までひんやり冷たくなる。
よその家の納屋に明かりが灯っている。どこかでトラクターのエンジン音が聞こえる。農家の朝はとっくに始まっているのだ。大きく深呼吸をしてから、雪乃は、やっぱり走りだした。
長靴ががぽがぽと鳴る。まっくろけぇしててっくりけぇることのないように気をつけながら、舗装された坂道を駆け上がる。ふだん軽トラックですいすい登る坂が、思ったよりずっと急であることに驚く。
息を切らしながらブドウ園の手前を左へ曲がり、砂利道に入ってなおも走ると、畑が見えてきた。整然とのびる畝の間に、紺色の*ヤッケを着て腰をかがめる茂三の姿がある。急に立ち止まったせいで足がもつれ、危うく本当にてっくりけぇりそうになった。
「シ……。」
(3)張りあげかけた声を飲みこむ。
ヨシ江はあんなふうに言ってくれたけれど、ほんとうに茂三は怒っていないだろうか。少なくとも、すごくあきれているんじゃないだろうか。謝ろうにも、この距離ではどんなふうに切り出せばいいかわからない。
布巾でくるまれたおにぎりをそっと抱え、立ち尽くしたままためらっていると、茂三が立ちあがり、痛む腰を伸ばした拍子にこちらに気づいた。
(4)「おーう、雪乃。やーっと来ただかい、寝ぼすけめ。」
笑顔とともに掛けられた、からかうようなそのひと言で、胸のつかえがすうっと楽になってゆく。手招きされ、雪乃はそばへ行った。
「ごめんなさい、シゲ爺。」
「なんで謝るだ。」
ロゴの入った帽子のひさしの下で、皺ばんだ目が面白そうに光る。
「だってあたし、あんなえらそうなこと言っといて……。」
「そんでも、こやって手伝いに来てくれただに。」
「それは、そうだけど……。」
「婆やんに起こされただか?」
「ううん。知らない間に目覚ましを止めちゃったみたいで寝坊したけど、なんとか自分で起きたよ。」
起きたとたんに〈げぇっ〉て叫んじゃった、と話すと、茂三はおかしそうに笑った。
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「いやいや、それでもてぇしたもんだわい。いっつも、婆やんがぶつくさ言ってるだに。『雪ちゃんは、起こしても起こしても起きちゃこねえでおえねえわい』つって。それが、いっペん目覚まし時計止めて、そんでもなお自分で起きたっちゅうなら、そりゃあなおさらてぇしたことだでほー。」
「……シゲ爺、怒ってないの?」
「だれぇ、なーんで怒るぅ。起きようと自分で決めて、いつもよりかは早く起きただもの、堂々と胸張ってりゃいいだわい。」
雪乃は、頷いた。目標を半分しか達成できなかったのに、半分は達成できた、と言ってくれる曾祖父のことを、改めて大好きだと思った。
「よし、そんなら手伝ってくれ。ジャガイモの*芽搔きだ。ああ、いやその前に、まずはそれを食っちまえ。ゆっくり嚙んでな。」
雪乃が手にしている布包みの中身がおにぎりだと、一目でわかったらしい。畑の端に座ってタラコと梅干しのおにぎりを食べながら、茂三の手もとを見守る。去年の十一月、骨にひびが入った手首はだいぶ良くなったようだが、無理な力がかかるとやはり痛むらしい。
ひと月ほど前、航介とともに雪乃も植え付けに参加した。半分にしたイモの切り口に草木灰をつけて乾かし、断面を下に、芽を上にして植えてゆくのだ。父親は別のやり方も試してみると言って、畑の奥半分は断面のほうを上にして植えていた。昔からあった方法らしいが、最近の研究では、このほうが収穫は遅くなるけれども病気にかかりにくいという結果が出たのだそうだ。
(5)お父さんもいろいろ勉強してるんだな、と思ってみる。自分にとって新しいことを始める時は、茂三のような大先輩の培ってきた知恵を素直に受け容れることも大切だし、また一方で、すべてを鵜呑みにするのではなく、一旦は疑ってみることも必要なのかもしれない。
よく嚙んで、けれどできるだけ急いで食べ終えて、雪乃は茂三のそばへ行った。一緒にジャガイモの畝の間にかがみ込む。
(村山由佳「雪のなまえ」による)
〔注〕
ヤッケ —— | フードの付いた、防風・防水・防寒用の上着。 |
芽搔き —— | 果樹、野菜等の発育を調整するために、不要な芽を、長く伸びないうちに指で取ること。 |
〔問1〕 (1)「……え?」とあるが、このときの雪乃の気持ちに最も近いのは、次のうちではどれか。
ア | ヨシ江がどのようにして、温厚な茂三に自分のことを放っておけと言わせたのか、ヨシ江から聞いてみたいと思う気持ち。 |
イ | 起こしてくれると約束していた茂三が、自分を置いたまま畑に行ったことが信じられず、ヨシ江の言葉を疑う気持ち。 |
ウ | 茂三とヨシ江が、苦笑しながら自分を起こさずに置いていこうとする様子を想像し、悔しさが込み上げる気持ち。 |
エ | 一緒に畑へ行きたいと伝えていたにもかかわらず、茂三が自分を放っておくように言ったと聞き、戸惑う気持ち。 |
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〔問2〕 (2)無言で洗面所へ走ると、超特急で顔を洗い、歯を磨き、部屋へ戻ってシャツとジーンズに着替えた。とあるが、この表現について述べたものとして最も適切なのは、次のうちではどれか。
ア | 早く出かけたいというあせりから不安へと気持ちが変化する様子を、丁寧に描写することで、説明的に表現している。 |
イ | 自分の甘えに気づき急いで身支度する様子を、場面の描写を短く区切りながら展開することで、印象的に表現している。 |
ウ | 遅れを取り戻したくて速やかに動く様子を、同じ語句の繰り返しとたとえを用いることで、躍動的に表現している。 |
エ | 情けない思いで押し黙って出かける準備をする心情や様子を、細部まで詳しく描くことで、写実的に表現している。 |
〔問3〕 (3)張りあげかけた声を飲みこむ。とあるが、このときの雪乃の気持ちに最も近いのは、次のうちではどれか。
ア | 畑まで急いで走ってきたため、思っていた以上に早く着き、茂三を驚かせようとして声のかけ方を決めかねている気持ち。 |
イ | 畑で農作業をしている茂三のそばに駆け寄り、話しかけようとしたが、なかなか気づいてもらえず困惑する気持ち。 |
ウ | 茂三が、自分に対してどのような思いを抱いているかつかみきれず、声をかけることをためらう気持ち。 |
エ | 茂三が快く許してくれないと思うと、自分から声をかけづらく、気づくまで待つことでしか誠意を示せないと思う気持ち。 |
〔問4〕 (4)「おーう、雪乃。やーっと来ただかい、寝ぼすけめ。」とあるが、この表現から読み取れる茂三の様子として最も適切なのは、次のうちではどれか。
ア | きっと来るだろうと思いながら待っていた雪乃の姿を見付け、ちゃかすような口調で、うれしそうに迎え入れようとする様子。 |
イ | 雪乃が来たことを喜びながらも、普段から早起きが苦手なひ孫をもて余しているため、できるだけ反省を促そうとする様子。 |
ウ | 身支度が遅いために待たずに置いてきたことを気にしていたが、雪乃が来たことを喜んで、照れ隠しでからかっている様子。 |
エ | 遅れて畑に来た雪乃に対して、昨日の心無い発言は大目に見て、子供らしいことだと理解して温かく接しようとする様子。 |
〔問5〕 (5)お父さんもいろいろ勉強してるんだな、と思ってみる。とあるが、雪乃が「お父さんもいろいろ勉強してるんだな、と思ってみ」たわけとして最も適切なのは、次のうちではどれか。
ア | 今朝寝過ごしたことを思い返し、曾祖父母に起こされた自分をふがいなく思い、自立している父に学びたいと考えているから。 |
イ | けがが治って精力的に働く茂三の様子を眺めながら、父の取り組みを振り返り、父が茂三を尊敬する理由を理解しようとしているから。 |
ウ | 農業に興味をもち始めた自分が、父と茂三の行動を思い返し、経験に基づく茂三よりも研究熱心な父を手本にしようとしているから。 |
エ | 茂三が用いた方法にとらわれない父の農作業の工夫を思い返し、新たな視点で、大人たちの姿について考えようとしているから。 |