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次の文章を読んで、あとの各問に答えよ。(*印の付いている言葉には、本文のあとに〔注〕がある。)
| 高校生の美緒は、母親との言い争いをきっかけに、父方の祖父が営む岩手の染織工房で生活し始め織物制作を学んでいる。八月上旬、父親の広志から電話があり、母親と共に岩手に行くのでひとまず一緒に東京に帰らないかと言われた。同じ頃、ショール作りの練習として作り始めたカーテンの色を決めかねていた美緒は、祖父から「コレクションルーム」で気に入った色を探すように言われた。 |
「おどる12人のおひめさま」と書かれた背表紙を見つけ、美緒は本を手に取る。
「これ、この絵本。これはまったく同じのを持ってた。」
ページをめくると、森の風景が目の前に広がった。
十二人の姫君が楽しそうに銀の森、金の森、ダイヤモンドの森を進んでいく。
「でも、あれ? なんか印象が違う……。すごくきれい。昔、読んだときは絵が怖くて、全然好きじゃなかったんだけど。」
祖父が隣の本棚の前に歩いていった。
「エロール・ル・カインが絵をつけたその話はグリム童話。ドイツ人の編纂だ。この話と似た伝承をイギリス人が編纂したものがある。そちらはカイ・ニールセンという画家が挿絵を描いているんだが。」
祖父が本を手に取り、戻ってきた。こちらのタイトルは漢字で「十二人の踊る姫君」とある。
あっ、と再び声が出た。
「それも持ってたよ。お誕生日のプレゼントにもらったの。」
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ほお、と祖父が感心したような声を上げた。
「これはなかなか手に入りづらい本だ。ずいぶん探したんだろうな。」
それを聞いて、うしろめたくなった。
この本は四つの話を集めた童話集だ。長い間本棚に置いていたが、中学生になるとき、中学入試の問題集と一緒に処分しようとしたところを*祖母が見つけ、横浜の家に持ち帰っていった。
この本にもやはり森を抜けていく十二人の姫君の絵があった。繊細な線で描かれた絵がとても神秘的だ。
「こんなきれいな本だったっけ、これも。」
「日本の絵本もいいぞ。実はこれは*ホームスパンではないかと、私がひそかに思っている話がある。」
祖父がもう一冊、絵本を差し出した。
宮沢賢治・作、黒井健・絵「水仙月の四日」とある。
本の扉を開けると、雪をかぶった山の風景に目を奪われた。この数ヶ月ですっかり見覚えた山の形だ。
「これ、もしかして、岩手山?」
「宮沢賢治は花巻と盛岡で生きたお人だからな。」
さらにページをめくると、赤い毛布を頭からかぶった子どもが一人、雪原を行く姿が描かれていた。
「この子がかぶっているの、*私のショールみたい。」
そうだろう? と答え、祖父は慈しむように文章を指でなぞった。
「ここに『赤い毛布』と書かれているが、私はこの子は赤いホームスパンをかぶっていたのだと思う。雪童子の心をとらえ、子どもの命を守り抜いた赤い布は、田舎者の代名詞の赤毛布より、この子の母親が家で紡いで作った毛織物だと思ったほうがロマンがあるじゃないか。話のついでだ。私の自慢もしていいだろうか。」
「うん、聞かせて!」
祖父の手がのび、軽く頭に触れた。すぐに手は離れ、祖父はさらに奥の本棚へと歩いていった。一瞬だが、頭をなでられたことに気付き、きまりが悪いような、嬉しいような思いで、祖父の背中を追う。
(1)「ねえ、おじいちゃん。あの棚の本、あとで私の部屋に持っていっていい?」
「一声かけてくれれば、なんでも持っていっていいぞ。」
一番奥の棚の前で祖父が足を止めた。そこには分厚く横にふくらんだノートが詰まっている。
祖父が一冊を手に取った。左のページには折り畳まれた絵が一枚貼ってある。さきほど見た絵本「水仙月の四日」の一ページだ。
右のページにはその絵に使われている色と、まったく同じ色に染められた糸の見本が貼ってあった。次のページには、たくさんの化学記号と数値が書き込まれている。
「これって、絵に使われた色を全部、糸に染めてあるの?」
「そうだよ。カイ・ニールセンやル・カインの絵本の糸もある。」
祖父が別のノートを広げると、さきほど見た「十二人の踊る姫君」の絵が左ページに貼られていた。「ダイヤモンドの森」の場面だ。
このノートも、「水仙月の四日」と同じく、絵に使われている色と同色の糸が右に貼られている。
「この糸で布を織ったら、絵が再現できるね。」
「織りで絵を表現するのは難しいが、刺繍という手もあるな。」
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「この糸で何つくったの? 見せて!」
「何もつくっていない。狙った色がきちんと染められるかデータを取っていたんだ。ここにあるノートは私の父の代からの染めの記録だ。数値通りにすれば、完璧に染められるというわけでもないが、道しるべみたいなものだな。」
下の棚にある古びたノートを取り出すと、紙は淡い茶色に変わっていた。鉛筆でびっしりと書かれている角張った文字は、祖父とは違う筆跡だ。
「もしかして、これが、ひいおじいちゃんの字?」
祖父がうなずき、中段の棚から一冊を出した。
「このあたりの番号のノートから私も染めに参加している。この時期は父の助手だったが。」
(2)ノートをのぞくと角張った字と、流れるような書体の祖父の筆跡が混じっていた。
曾祖父の存在を強く感じ、美緒はノートの字に触れてみる。
顔も姿も想像できないが、何十年も前に、このノートに曾祖父が文字を書いたのだ。
「お父さんがこの前言ってた……。ひいおじいちゃんの口癖は『丁寧な仕事』と『暮らしに役立つモノづくり』だって。」
「古い話を広志もよく覚えていたな。」
祖父が微笑み、羽箒で棚のほこりをはらった。
「おじいちゃんは、お父さんが仕事を継がなくてがっかりした?」
「がっかりはしなかった。」
(3)即答したが、そのあとの言葉に祖父は詰まった。
しばらく黙ったのち、小さな声がした。
「ただ……寂しくはあったな。それでも、娘に美緒と名付けたと聞いたとき、広志が家業のことを深く思っていたのがわかった。だから、それでいいと思ったよ。」
「えっ? そんな話は聞いたことない。私の名前に何か意味があるの?」
祖父が、曾祖父がつけていたノートに目を落とした。
「美という漢字は、羊と大きいという字を合わせて作られた文字だ。緒とは糸、そして命という意味がある。美緒とはすなわち美しい糸、美しい命という意味だ。」
美しい糸、と祖父がつぶやいた。
「美緒という名前のなかには、大きな羊と糸。私たちの仕事が入っている。家業は続かなくとも、美しい命の糸は続いていくんだ。」
(4)目の前にある大量のノートを美緒は見つめる。
曾祖父と祖父が集めてきたデータの蓄積。このノートを使いこなせれば、自分が思った色に羊毛や糸を染めることができる。
その技を持っているのは、さっき頭に触れた祖父の手だけだ。
「おじいちゃん……私、染めも自分でやってみたい。」
祖父がノートを棚に戻した。
「染めは大人の仕事だ。熱いし、危ない。力仕事だから腰も痛める。染めの工程はこの間の*コチニール染めでわかっただろう? それで十分だ。」
「熱いの大丈夫だよ。危ないことも気を付ける。」
「気を付けているときには事故はおきない。それがふっと途切れたときに間違いがおきるんだ。そのとき即座に対応できる決断力がほしい。私は年寄りだから、その力が鈍っているよ。美緒も決して得意なほうではないだろう。」
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「でも……。」
「ショールの色は決まったか? 自分の好きな色、これからを託す色は見つけられたか?」
「まだ、です。探してるけど。」
ショールの色だけではなく、部屋のカーテンの色もまだ決められない。
口調は穏やかだが、決断力に欠けていることを指摘され、顔が下を向いた。
*せがなくていい、と祖父がポケットから小さな紙を出した。
「色はゆっくり考えればいい。だが、そろそろ買い物に行ってくれるか。来週なんてすぐだぞ。お父さんたちをもてなす準備を始めようじゃないか。」
(5)はい、と小声で答え、美緒はメモを受け取る。
ショールの色だけではない。東京へひとまず帰るか、この夏ずっと祖父の家で過ごすか。
それを父に言う決断もつけられずにいる。
祖父のコレクションルームから気になる画集や絵本を部屋に運んだあと、いつもはスープを入れているステンレスボトルに水を入れ、盛岡の町に出かけた。
(伊吹有喜「雲を紡ぐ」による)
〔注〕
祖母 —— | 美緒の母方の祖母。横浜に住んでいる。 |
ホームスパン —— | 手紡ぎの毛糸で手織りした毛織物。 |
私のショール —— | 美緒が生後間もない頃に父方の祖父母から贈られた、とても大切にしている赤い手織のショール。 |
雪童子 —— | 子供の姿をしている雪の精。 |
コチニール染め —— | コチニールカイガラムシから採れる赤色の天然色素を用いた染色作業。 |
〔問1〕 | (1)「ねえ、おじいちゃん。あの棚の本、あとで私の部屋に持っていっていい?」とあるが、このときの美緒の気持ちに最も近いのは、次のうちではどれか。 |
ア | 幼い頃に感じられなかった、絵本の美しさや楽しさに気付かせてくれた祖父に親しみを抱き、祖父の本をもっと読みたいと思う気持ち。 |
イ | 祖父が絵本に登場する服の色に着目していることに興味をもち、自分の本と棚の本を研究して、祖父に認めてもらいたいと思う気持ち。 |
ウ | 祖父が親愛の情を示してくれたことを嬉しく感じ、自分が棚の本に興味を示すことによって、祖父をもっと喜ばせたいと思う気持ち。 |
エ | 会話を通じて祖父の人柄や考え方にひかれ、祖父が集めてきた棚の本を読むことで、本の好みや選び方を知りたいと思う気持ち。 |
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〔問2〕 | (2)ノートをのぞくと角張った字と、流れるような書体の祖父の筆跡が混じっていた。とあるが、この表現について述べたものとして最も適切なのは、次のうちではどれか。 |
ア | 祖父が曾祖父の厳格さに反発する気持ちをもっていたことを、二人の対照的な書体を対比させて描くことで、象徴的に表現している。 |
イ | 祖父が曾祖父と共に芸術的表現を追求していたことを、二人の筆跡をたとえを用いて技巧的に描くことで、情緒的に表現している。 |
ウ | 祖父が曾祖父と共に染めに携わりつつ記録を引き継いできたことを、二人の異なる筆跡を視覚的に描くことで、印象的に表現している。 |
エ | 祖父が曾祖父と共に色鮮やかで美しい糸を紡ぐ仕事を続けてきたことを、二人の字形や色彩を絵画的に描くことで、写実的に表現している。 |
〔問3〕 | (3)即答したが、そのあとの言葉に祖父は詰まった。とあるが、「祖父」が「そのあとの言葉」に「詰まった」わけとして最も適切なのは、次のうちではどれか。 |
ア | 一度は否定したものの、当時を振り返って本当はがっかりしていたのだと思い直し、そのときの気持ちを美緒に伝えたいと思っていたから。 |
イ | 息子が自立したときに抱いた切なさと、家業に対する息子の思いを推し量っていたことを振り返りつつ、美緒に伝える言葉を探していたから。 |
ウ | 息子の進んだ道に理解を示しつつも、心の底に抱いてきた寂しさや疑問が不意に膨れ上がり、気持ちを懸命に抑えようとしていたから。 |
エ | 気落ちしなかったと答えたのは、祖父としてただ威厳を示そうとしたためだったと気付き、美緒にどう説明すべきか迷っていたから。 |
〔問4〕 | (4)目の前にある大量のノートを美緒は見つめる。とあるが、この表現から読み取れる「美緒」の様子として最も適切なのは、次のうちではどれか。 |
ア | 脈々と続いている生命と家業の技術を尊く感じつつ、父が自分の名前に込めた家業の継承への期待を知って徐々に意欲を高めている様子。 |
イ | 目の前にある大量のノートに記されたこれから関わろうとしている仕事の量と質の高さに戸惑い、自分の拙さを強く感じている様子。 |
ウ | 曾祖父と祖父の染色への思いや労力に敬服するとともに、父が大切に思っていた家業を継がなかった真意を測りかねている様子。 |
エ | 曾祖父と祖父の研究の重みや自分の名前に込められた父の思いを想起しつつ、ノートに従って糸を染めてみたいと考えている様子。 |
〔問5〕 | (5)はい、と小声で答え、美緒はメモを受け取る。とあるが、このときの「美緒」の気持ちに最も近いのは、次のうちではどれか。 |
ア | 染めに取り組むことが認められなかったことはもっともだと納得し、ショールの色を決められない自分の優柔不断さを嫌悪するが、父親たちにはまだ自分の能力の限界だとは思われたくないと願う気持ち。 |
イ | 染めの希望がかなわず残念に思うものの、決断力の弱さを指摘されてもなお染めに対する意欲を失わず、父親たちとの再会に思いを巡らす中で自分のこれからのことをどのように伝えるべきか迷う気持ち。 |
ウ | 染めに取り組みたいという願いがかなわなかったことに悲しみが込み上げ、急がなくてよいという祖父の慰めの言葉と、父が祖父を説得すれば染めに取り組めるかもしれないという期待にすがりたい気持ち。 |
エ | 染めの仕事を認めようとしない祖父の態度に困惑しながら、決断力の弱さを自覚して落胆するとともに、父親たちとの再会を控えて染めとの向き合い方を模索してこなかったことを後悔する気持ち。 |