5
二
次の文章を読んで、後の各問に答えよ。句読点等は字数として数えること。
【ここまでのあらすじ】小学校五年生の少年は、入院した母のお見舞いにバスで行くようになった。初めて一人で乗ったバスで、整理券の出し方を運転手の河野さんに叱られて以来、少年は河野さんのバスに乗るのが怖くなった。回数券を買い足す日、少年が乗ったバスの運転手は河野さんだった。少年は、嫌だ、運が悪いと思ったが、買い方を注意されながらも、どうにか回数券三冊を購入した。
買い足した回数券の三冊目が――もうすぐ終わる。
最後から二枚目の回数券を――今日、使った。あとは①表紙を兼ねた十一枚目の券だけだ。
明日からお小遣いでバスに乗ることにした。毎月のお小遣いは千円だから、あとしばらくはだいじょうぶだろう。
ところが、迎えに来てくれるはずの父から、病院のナースステーションに電話が入った。
「今日はどうしても抜けられない仕事が入っちゃったから、一人でバスで帰って、って」
看護師さんから伝言を聞くと、泣きだしそうになってしまった。
今日は財布を持って来ていない。回数券を使わなければ、家に帰れない。
母の前では涙をこらえた。病院前のバス停のベンチに座っているときも、②必死に唇を噛んで我慢した。【A】でも、バスに乗り込み、最初は混み合っていた車内が少しずつ空いてくると、急に悲しみが胸に込み上げてきた。シートに座る。【B】座ったままうずくまるような格好で泣いた。バスの重いエンジンの音に紛らせて、うめき声を漏らしながら泣きじゃくった。【C】
『本町一丁目』が近づいてきた。【D】顔を上げると、他の客は誰もいなかった。降車ボタンを押して、手の甲で涙をぬぐいながら席を立ち、ポケットから回数券の最後の一枚を取り出した。【E】
バスが停まる。運賃箱の前まで来ると、運転手が河野さんだと気づいた。それでまた、悲しみがつのった。こんなひとに最後の回数券を渡したくない。
整理券を運賃箱に先に入れ、回数券をつづけて入れようとしたとき、とうとう泣き声が出てしまった。
「どうした?」と河野さんが訊いた。「なんで泣いてるの?」――ぶっきらぼうではない言い方をされたのは初めてだったから、逆に涙が止まらなくなってしまった。
「財布、落としちゃったのか?」
泣きながらかぶりを振って、回数券を見せた。
じゃあ早く入れなさい――とは、言われなかった。
河野さんは「どうした?」ともう一度訊いた。
その声にすうっと手を引かれるように、少年は嗚咽交じりに、回数券を使いたくないんだと伝えた。母のこともしゃべった。新しい回数券を買うと、そのぶん、母の退院の日が遠ざかってしまう。ごめんなさい、ごめんなさい、と手の甲で目元を覆った。この回数券、ぼくにください、と言った。
河野さんはなにも言わなかった。かわりに、小銭が運賃箱に落ちる音が聞こえた。目元から手の甲をはずすと、整理券と一緒に百二十円、箱に入っていた。もう前に向き直っていた河野さんは、少年を振り向かずに、「早く降りて」と言った。「次のバス停でお客さんが待ってるんだから、早く」――声はまた、ぶっきらぼうになっていた。
次の日から、少年はお小遣いでバスに乗った。お金がなくなるか、「回数券まだあるのか?」と父に訊かれるまでは知らん顔しているつもりだったが、その心配は要らなかった。
三日目に病室に入ると、母はベッドに起き上がって、父と笑いながらしゃべっていた。会社を抜けてきたという父は、少年を振り向いてうれしそうに言った。
「お母さん、あさって退院だぞ」
退院の日、母は看護師さんから花束をもらった。車で少年と一緒に迎えに来た父も、大きな花束をプレゼントした。
帰り道、「ぼく、バスで帰っていい?」と訊くと、両親はきょとんとした顔になったが、「病院からバスに乗るのもこれで最後だもんなあ」「よくがんばったよね、寂しかったでしょ? ありがとう」と笑って許してくれた。
「帰り、ひょっとしたら、ちょっと遅くなるかもしれないけど、いい? いいでしょ? ね、いいでしょ?」
両手で拝んで頼むと、母は「晩ごはんまでには帰ってきなさいよ」とうなずき、父は「そうだぞ、今夜はお寿司とるからな、パーティーだぞ」と笑った。
6
バス停に立って、河野さんの運転するバスが来るのを待った。バスが停まると、降り口のドアに駆け寄って、その場でジャンプしながら運転席の様子を確かめる。
何便もやり過ごして、陽が暮れてきて、やっぱりだめかなあ、とあきらめかけた頃――やっと河野さんのバスが来た。
車内は混み合っていたので、走っているときに河野さんに近づくことはできなかった。それでもいい。通路を歩くのはバスが停まってから。整理券は丸めてはいけない。
次は本町一丁目、本町一丁目……とアナウンスが聞こえると、降車ボタンを押した。ゆっくりと、人差し指をピンと伸ばして。
バスが停まる。通路を進む。河野さんはいつものように不機嫌な様子で運賃箱を横目で見ていた。
目は合わない。それがちょっと残念で、でも河野さんはいつもこうなんだもんな、と思い直して、整理券と回数券の最後の一枚を入れた。
降りるときには早くしなければいけない。順番を待っているひともいるし、次のバス停で待っているひともいる。
だから、少年はなにも言わない。回数券に書いた「ありがとうございました」にあとで気づいてくれるかな、気づいてくれるといいな、と思いながら、ステップを下りた。
バスが走り去ったあと、空を見上げた。西のほうに陽が残っていた。どこかから聞こえる「ごはんできたよお」のお母さんの声に応えるように、少年は歩きだす。
何歩か進んで振り向くと、車内灯の明かりがついたバスが通りの先に小さく見えた。やがてバスは交差点をゆっくりと曲がって、消えた。
(重松清『バスに乗って』による。一部改変)
(注)回数券… | 乗車券の何回分かをとじ合わせたもの。ここでは、十回分の値段で乗車券の十一回分をとじ合わせた冊子。 |
かぶりを振って… | 否定の意を示して。 |
問一 | 本文中に ①表紙を兼ねた十一枚目の券 とあるが、これを言い換えた表現を本文中から九字でそのまま抜き出して書け。 |
問二 | 本文中の ②必死に唇を噛んで我慢した を単語に区切り、切れる箇所に/の記号を書け。 |
問三 | 本文中の【A】〜【E】のうち、次の一文が入る最も適当な箇所はどこか。A〜Eから一つ選び、記号を書け。 |
| 窓から見えるきれいな真ん丸の月が、じわじわとにじみ、揺れはじめた。 |
問四 | 次の の中は、本文を読んだ池田さんと中川さんと先生が、少年の心情について会話をしている場面である。 |
池田さん | 「帰り、ひょっとしたら、ちょっと遅くなるかもしれない」という会話や、「両手で拝んで頼む」という行動から、河野さんのバスに乗りたいという少年の思いが読み取れるよ。河野さんのバスに乗るのを嫌だと思っていたのにね。 |
中川さん | 「そうだね。 ア かもしれないことに対する少年の不安や悲しみの思いを受け止め、回数券を使わなくていいようにしてくれた河野さんに、少年は イ の気持ちを伝えたかったんだろうな。 |
池田さん | そうだよね。少年は イ の気持ちを回数券に書いて伝えることも、河野さんから言われたことを守ってバスに乗ることもできて、「バスが走り去ったあと、空を見上げた」ときは、大きな達成感を味わっていたと思うな。 |
中川さん | そのほかにも、「何歩か進んで振り向くと、車内灯の明かりがついたバスが通りの先に小さく見えた。やがてバスは交差点をゆっくりと曲がって、消えた。」という二文に描き出されている、見えなくなるまでバスを見送る少年の姿から、 ウ ことに一抹の寂しさを感じていることも読み取れるよね。 |
先生 | 描写に着目して、少年の心情をしっかりととらえることができていますね。 |
(1) | ア に入る内容を、本文中から十五字でそのまま抜き出して書け。 |
(2) | イ に入る適当な語句を、漢字二字で考えて書け。 |
(3) | ウ に入る内容を、二十五字以上、三十五字以内で考えて書け。ただし、母、河野さん という二つの語句を必ず使うこと。 |