枕草子(まくらのそうし)  ~抜粋(ばっすい)~

清少納言(せいしょうなごん)

 

image00001.jpg

 

 

(第一段(だいいちだん))

  春(はる)は曙(あけぼの)。やうやう白(しろ)くなりゆく、山際(やまぎは)すこし明(あ)かりて、紫(むらさき)立(だ)ちたる雲(くも)の細(ほそ)くたなびきたる。

  夏(なつ)は、夜(よる)。月(つき)のころはさらなり、闇(やみ)もなほ、螢(ほたる)の多(おほ)く飛(と)び違(ちが)ひたる。また、ただ一(ひと)つ二(ふた)つなど、ほのかにうち光(ひか)りて行(ゆ)くも、をかし。雨(あめ)など降(ふ)るも、をかし。

  秋(あき)は夕暮(ゆふぐ)れ。夕日(ゆふひ)のさして、山(やま)の端(は)いと近(ちか)うなりたるに、烏(からす)の、寝所(ねどころ)へ行(ゆ)くとて、三(み)つ四(よ)つ二(ふた)つなど、飛(と)び急(いそ)ぐさへ、あはれなり。まいて、雁(かり)などの連(つら)ねたるが、いと小(ちい)さく見(み)ゆるは、いとをかし。日(ひ)入(い)り果(は)てて、風(かぜ)の音(おと)、虫(むし)の音(ね)など、はた、言(い)ふべきにあらず。

  冬(ふゆ)は早朝(つとめて)。雪(ゆき)の降(ふ)りたるは、言(い)ふべきにもあらず、霜(しも)のいと白(しろ)きも、またさらでも、いと寒(さむ)きに、火(ひ)など急(いそ)ぎおこして、炭(すみ)持(も)て渡(わた)るも、いとつきづきし。昼(ひる)になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃(すびつ)・火桶(ひをけ)の火(ひ)も白(しろ)き灰(はひ)がちになりて、わろし。

 

 

(第二段(だいにだん))

(ころは正月(むつき))  七日(なぬか)、雪間(ゆきま)の若菜(わかな)摘(つ)み、青(あを)やかにて、例(れい)はさしもさるもの目近(めぢか)からぬ所(ところ)にもて騒(さわ)ぎたるこそ、をかしけれ。白(あを)馬(むま)見(み)にとて、里人(さとびと)は、車(くるま)清(きよ)げにしたてて見(み)に行(ゆ)く。中(なか)の御門(みかど)の閾(とじきみ)引(ひ)き過(す)ぐるほど、頭(かしら)、一所(ひとところ)にゆるぎあひ、刺櫛(さしぐし)も落(お)ち、用意(ようい)せねば折(を)れなどして笑(わら)ふも、またをかし。左衛門(さゑもん)の陣(ぢん)のもとに、殿上人(てんじやうびと)などあまた立(た)ちて、舎人(とねり)の弓(ゆみ)ども取(と)りて、馬(むま)ども驚(おどろ)かし笑(わら)ふを、はつかに見入(みい)れたれば、立蔀(たてじとみ)などの見(み)ゆるに、主殿司(とのもりづかさ)、女官(にようくわん)などの行(ゆ)き違(ちが)ひたるこそ、をかしけれ。いかばかりなる人(ひと)、九重(ここのへ)を馴(な)らすらむ、など思(おも)ひやらるるに、内裏(うち)にも見(み)るは、いと狭(せば)きほどにて、舎人(とねり)の顔(かほ)のきぬにあらはれ、まことに黒(くろ)きに、白(しろ)きものいきつかぬ所(ところ)は、雪(ゆき)のむらむら消(き)え残(のこ)りたる心地(ここち)していと見苦(みぐる)しく、馬(むま)のあがり騒(さわ)ぐなどもいと恐(おそ)ろしう見(み)ゆれば、引(ひ)き入(い)られてよくも見(み)えず。

 

  十五日(とをかあまりいつか)、節供(せく)参(まゐ)り据(す)ゑ、粥(かゆ)の木(き)ひき隠(かく)して、家(いへ)の御達(ごたち)、女房(にようばう)などのうかがふを、打(う)たれじと用意(ようい)して、常(つね)に後(うしろ)を心遣(こころづか)ひしたる気色(けしき)も、いとをかしきに、いかにしたるにかあらむ、打(う)ちあてたるは、いみじう興(きよう)ありてうち笑(わら)ひたるは、いとはえばえし。ねたしと思(おも)ひたるもことわりなり。新(あたら)しう通(かよ)ふ婿(むこ)の君(きみ)などの、  内裏(うち)へ参(まゐ)るほどをも心(こころ)もとなう、所(ところ)につけて我(われ)はと思(おも)ひたる女房(にようばう)の、のぞき、気色(けしき)ばみ、奧(おく)の方(かた)にたたずまふを、前(まえ)に居(ゐ)たる人(ひと)は心得(こころえ)て笑(わら)ふを、「あなかま」と、まねき制(せい)すれども、女(をんな)はた、知(し)らず顏(がほ)にて、おほどかにて居給(ゐたま)へり。「ここなる物(もの)、取(と)り侍(はべ)らむ」など言(い)ひ寄(よ)りて、走(はし)り打(う)ちて逃(に)ぐれば、ある限(かぎ)り、笑(わら)ふ。男君(をとこぎみ)も、憎(にく)からずうち笑(ゑ)みたるに、ことに驚(おどろ)かず、顔(かほ)すこし赤(あか)みて居(ゐ)たるこそ、をかしけれ。また、かたみに打(う)ちて、男(をとこ)をさへぞ打(う)つめる。いかなる心(こころ)にかあらむ、泣(な)き腹立(はらだ)ちつつ、人(ひと)をのろひ、まがまがしく言(い)ふもあるこそ、をかしけれ。内裏(うち)わたりなどのやむごとなきも、今日(けふ)は皆(みな)乱(みだ)れて、かしこまりなし。

 

 

(第五段(だいごだん))

(大進(だいじん)生昌(なりまさ)が家(いへ)に)  御前(おまへ)に参(まゐ)りて、ありつるやう啓(けい)すれば、「ここにても、人(ひと)は見(み)るまじうやは。などかは、さしもうちとけつる」と、笑(わら)はせ給(たま)ふ。「されどそれは、目(め)馴(な)れにて侍(はべ)れば、よくしたてて侍(はべ)らむにしもこそ、驚(おどろ)く人(ひと)も侍(はべ)らめ。さても、かばかりの家(いへ)に車(くるま)入(い)らぬ門(かど)やはある。見(み)えば笑(わら)はむ』など言(い)ふほどにしも、「これ、参(まゐ)らせ給(たま)へ」とて、御硯(おんすずり)などさし入(い)る。「いで、いとわろくこそおはしけれ。など、その門(かど)はた、狭(せば)くは造(つく)りて住(す)み給(たま)ひける」と言(い)へば、笑(わら)ひて、「家(いへ)のほど、身(み)のほどにあはせて侍(はべ)るなり』と答(いら)ふ。「されど、門(かど)の限(かぎ)りを高(たか)う造(つく)る人(ひと)もありけるは」と言(い)へば、「あな恐(おそ)ろし」と驚(おどろ)きて、「それは于定国(うていこく)がことにこそ侍(はべ)るなれ。古(ふる)き進士(しんじ)などに侍(はべ)らずは、承(うけたまは)り知(し)るべきにも侍(はべ)らざりけり。たまたまこの道(みち)にまかり入(い)りにければ、かうだにわきまへ知(し)られ侍(はべ)る」と言(い)ふ。「その御道(おんみち)も、かしこからざめり。筵道(えんだう)敷(し)きたれど、皆(みな)おちいり騒(さわ)ぎつるは」と言(い)へば、「雨(あめ)の降(ふ)り侍(はべ)りつれば、さも侍(はべ)りつらむ。よしよし、また仰(おほ)せられかくることもぞ侍(はべ)る。まかり立(た)ちなむ」とて、去(い)ぬ。

 

 

(第二十段(だいにじゅうだん))

(清涼殿(せいりやうでん)の丑寅(うしとら)の隅(すみ)の)  高欄(かうらん)のもとに、青(あを)き瓶(かめ)の大(おほ)きなるを据(す)ゑて、桜(さくら)のいみじうおもしろき枝(えだ)の五尺(ごしやく)ばかりなるを、いと多(おほ)くさしたれば、高欄(かうらん)の外(と)まで咲(さ)きこぼれたる昼(ひる)つ方(かた)、大納言殿(だいなごんどの)、桜(さくら)の直衣(なほし)のすこしなよらかなるに、濃(こ)き紫(むらさき)の固(かた)紋(もん)の指貫(さしぬき)、白(しろ)き御衣(おんぞ)ども、上(うへ)には濃(こ)き綾(あや)のいとあざやかなるを出(い)だして参(まゐ)り給(たま)へるに、上(うへ)の、こなたにおはしませば、戸口(とぐち)の前(まへ)なる細(ほそ)き板敷(いたじ)きに居給(ゐたま)ひて、ものなど申(まう)し給(たま)ふ。

  御簾(みす)の内(うち)に、女房(にようばう)、桜(さくら)の唐衣(からぎぬ)どもくつろかに脱(ぬ)ぎ垂(た)れて、藤(ふぢ)、山吹(やまぶき)など色々(いろいろ)好(この)ましうて、あまた、小半蔀(こはじとみ)の御簾(みす)より押(お)し出(い)でたるほど、昼(ひ)の御座(おまし)の方(かた)には、御膳(おもの)参(まゐ)る足音(あしおと)高(たか)し。警蹕(けいひち)など、「をし」と言(い)ふ声(こゑ)聞(き)こゆるも、うらうらとのどかなる日(ひ)の気色(けしき)など、いみじうをかしきに、果(は)ての御盤(ごばん)取(と)りたる蔵人(くらうど)参(まゐ)りて、御膳(おもの)奏(そう)すれば、中(なか)の戸(と)より渡(わた)らせ給(たま)ふ。御供(おんとも)に、廂(ひさし)より大納言(だいなごん)殿(どの)御(おん)送(おく)りに参(まゐ)り給(たま)ひて、ありつる花(はな)のもとに帰(かへ)り居(ゐ)給(たま)へり。

 

「村上(むらかみ)の御時(おほんとき)に、宣耀殿(せんえうでん)の女御(にようご)と聞(き)こえけるは、小一条(こいちでう)の左(ひだり)の大臣殿(おほいとの)の御女(おんむすめ)におはしけると、誰(たれ)かは知(し)り奉(たてまつ)らざらむ。まだ姫君(ひめぎみ)と聞(き)こえける時(とき)、父(ちち)大臣(おとど)の教(をし)へきこえ給(たま)ひけることは、『一(いち)には、御手(おんて)を習(なら)ひ給(たま)へ。次(つぎ)には、琴(きん)の御琴(おんこと)を、人(ひと)より異(こと)に弾(ひ)きまさらむとおぼせ。さては、古今(こきん)の歌(うた)二十巻(はたまき)を、皆(みな)うかべさせ給(たま)ふを、御学問(おんがくもん)にはせさせ給(たま)へ』となむ、聞(き)こえ給(たま)ひける、と、きこしめしおきて、御物忌(おんものい)みなりける日(ひ)、古今(こきん)を持(も)て渡(わた)らせ給(たま)ひて、御几帳(みきちやう)をひき隔(へだ)てさせ給(たま)ひければ、女御(にようご)、例(れい)ならずあやしと、おぼしけるに、草子(さうし)を広(ひろ)げさせ給(たま)ひて、『その月(つき)、何(なに)のをり、その人(ひと)の詠(よ)みたる歌(うた)は、いかに』と、問(と)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ふを、かうなりけり、と心得(こころえ)給(たま)ふも、をかしきものの、僻(ひが)覚(おぼ)えをもし、忘(わす)れたるところもあらば、いみじかるべきこと、と、わりなうおぼし乱(みだ)れぬべし。その方(かた)におぼめかしからぬ人(ひと)、二(ふたり)、三人(みたり)ばかり召(め)し出(い)でて、碁石(ごいし)して数(かず)置(お)かせ給(たま)ふとて、強(し)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひけむほどなど、いかにめでたうをかしかりけむ。御前(おまへ)に候(さぶら)ひけむ人(ひと)さへこそ、うらやましけれ。せめて申(まう)させ給(たま)へば、さかしう、やがて末(すゑ)まではあらねども、すべてつゆ違(たが)ふことなかりけり。いかでなほ、すこしひがこと見付(みつ)けてをやまむ、と、ねたきまでにおぼしめしけるに、十巻(とまき)にもなりぬ。『さらに不用(ふよう)なりけり』とて、御(おん)草子(さうし)に夾算(けふさん)さして、大殿籠(おほとのごも)りぬるも、まためでたしかし。……」

 

   

(第二一段(だいにじゅういちだん))

  生(お)ひ先(さき)なく、まめやかに、似非(えせ)幸(ざいは)ひなど見(み)て居(ゐ)たらむ人(ひと)は、いぶせく、侮(あなづ)らはしく思(おも)ひやられて、なほ、さりぬべからむ人(ひと)の女(むすめ)などは、さしまじらはせ、世(よ)のありさまも見(み)せ習(なら)はさまほしう、典侍(ないしのすけ)などにてしばしもあらせばや、とこそ、おぼゆれ。

  宮仕(みやづか)へする人(ひと)をば、あはあはしう、わろきことに言(い)ひ思(おも)ひたる男(をとこ)などこそ、いと憎(にく)けれ。げに、そも、またさることぞかし。かけまくもかしこき御前(おまへ)をはじめ奉(たてまつ)りて、上達部(かんだちめ)、殿上人(てんじやうびと)、五位(ごゐ)、四位(しゐ)はさらにも言(い)はず、見(み)ぬ人(ひと)は少(すく)なくこそあらめ。女房(にようばう)の従者(ずさ)、その里(さと)より来(く)る者(もの)、長女(をさめ)、御厠人(みかはやうど)の従者(ずさ)、たびしかはらといふまで、いつかはそれを恥(は)ぢ隠(かく)れたりし。殿(との)ばらなどは、いとさしもやあらざらむ。それも、ある限(かぎ)りは、しか、さぞあらむ。

  上(うへ)など言(い)ひて、かしづき据(す)ゑたらむに、心憎(こころにく)からずおぼえむ、ことわりなれど、また内裏(うち)の典侍(ないしのすけ)などいひて、をりをり内裏(うち)へ参(まゐ)り、祭(まつ)りの使(つか)ひなどに出(い)でたるも、面立(おもだ)たしからずやはある。さて、こもりゐぬる人(ひと)は、まいてめでたし。受領(ずらう)の、五節(ごせち)出(い)だすをりなど、いとひなび、言(い)ひ知(し)らぬことなど、人(ひと)に問(と)ひ聞(き)きなどは、せじかし。心憎(こころにく)きものなり。

 

 

(第二二段(だいにじゅうにだん))

  すさまじきもの  昼(ひる)吠(ほ)ゆる犬(いぬ)。春(はる)の網代(あじろ)。三(やよひ)、四月(うづき)の紅梅(こうばい)の衣(きぬ)。牛(うし)死(し)にたる牛飼(うしか)ひ。乳児(ちご)亡(な)くなりたる産屋(うぶや)。火(ひ)おこさぬ炭櫃(すびつ)、地火炉(ぢくわろ)。博士(はかせ)のうち続(つづ)き女子(をんなご)生(む)ませたる。方(かた)違(たが)へに行(ゆ)きたるに、饗応(あるじ)せぬ所(ところ)。まいて節分(せちぶん)などはいとすさまじ。

  人(ひと)の国(くに)よりおこせたる文(ふみ)の、物(もの)なき。京(きやう)のをも、さこそ思(おも)ふらめ。されどそれは、ゆかしきことどもをも書(か)き集(あつ)め、世(よ)にあることなどをも聞(き)けば、いとよし。人(ひと)のもとに、わざと清(きよ)げに書(か)きてやりつる文(ふみ)の返事(かへりこと)、今(いま)は持(も)て来(き)ぬらむかし、あやしう遅(おそ)き、と、待(ま)つほどに、ありつる文(ふみ)、立(た)て文(ぶみ)をも結(むす)びたるをも、いと汚(きたな)げに取(と)りなし、ふくだめて、上(うへ)に引(ひ)きたりつる墨(すみ)など消(き)えて、「おはしまさざりけり」もしは「御物忌(おんものい)みとて取(と)り入(い)れず」と言(い)ひて持(も)て帰(かへ)りたる、いとわびしく、すさまじ。

 

  除目(ぢもく)に司(つかさ)得(え)ぬ人(ひと)の家(いへ)。今年(ことし)は必(かなら)ず、と聞(き)きて、はやうありし者(もの)どものほかほかなりつる、田舎(ゐなか)だちたる所(ところ)に住(す)む者(もの)どもなど、皆(みな)集(あつま)り来(き)て、出(い)で入(い)る車(くるま)の轅(ながえ)も 隙(ひま)なく見(み)え、もの詣(まう)でする供(とも)に、我(われ)も我(われ)もと参(まゐ)り仕(つか)うまつり、物(もの)食(く)ひ酒(さけ)飲(の)み、ののしりあへるに、果(は)つる暁(あかつき)まで門(かど)たたく音(おと)もせず、「あやしう」など、耳(みみ)立(た)てて聞(き)けば、前駆(さき)追(お)ふ声々(こゑごゑ)などして上達部(かんだちめ)など皆(みな)出(い)で給(たま)ひぬ。もの聞(き)きに宵(よひ)より寒(さむ)がりわななきをりける下衆(げす)男(をとこ)、いともの憂(う)げに歩(あゆ)み来(く)るを、居(を)る者(もの)どもは、え問(と)ひにだに問(と)はず、外(ほか)より来(き)たる者(もの)などぞ、「殿(との)は、何(なに)にかならせ給(たま)ひたる」など問(と)ふに、答(いら)へには、「某(なに)の前司(ぜんじ)にこそは」などぞ、必(かなら)ず答(いら)ふる。まことに頼(たの)みける者(もの)は、いと嘆(なげ)かしと思(おも)へり。つとめてになりて、隙(ひま)なく居(を)りつる者(もの)ども、一人(ひとり)、二人(ふたり)すべり出(い)でて去(い)ぬ。古(ふる)き者(もの)どもの、さもえ行(い)き離(はな)るまじきは、来年(らいねん)の国々(くにぐに)、手(て)を折(を)りてうち数(かぞ)へなどして、ゆるぎ歩(あり)きたるも、いとほしう、すさまじげなり。

 

 

(第二五段(だいにじゅうごだん))

(にくきもの)  なでふことなき人(ひと)の、笑(ゑ)がちにて、ものいたう言(い)ひたる。火桶(ひをけ)の火(ひ)、炭櫃(すびつ)などに、手(て)の裏(うら)うち返(かへ)しうち返(かへ)しおしのべなどして、あぶりをる者(もの)。いつか、若(わか)やかなる人(ひと)など、さはしたりし。老(お)いばみたる者(もの)こそ、火桶(ひをけ)の端(はた)に足(あし)をさへもたげて、もの言(い)ふままに押(お)しすりなどはすらめ。さやうの者(もの)は、人(ひと)のもとに来(き)て、居(ゐ)むとする所(ところ)を、まづ扇(あふぎ)してこなたかなたあふぎ散(ち)らして、塵(ちり)掃(は)き捨(す)て、居(ゐ)も定(さだ)まらずひろめきて、狩衣(かりぎぬ)の前(まへ)巻(ま)き入(い)れても居(ゐ)るべし。かかることは、言(い)ふかひなき者(もの)の際(きは)にやと思(おも)へど、すこしよろしき者(もの)の、式部(しきぶ)の大夫(たいふ)などいひしが、せしなり。

  また、酒(さけ)飲(の)みてあめき、口(くち)を探(さぐ)り、鬚(ひげ)ある者(もの)はそれをなで、盃(さかづき)、異人(ことひと)に取(と)らするほどの気色(けしき)、いみじうにくしと見(み)ゆ。「また飲(の)め」と言(い)ふなるべし、身震(みぶる)ひをし、頭(かしら)振(ふ)り、口(くち)わきをさへ引(ひ)き垂(た)れて、童(わらはべ)の「こう殿(との)に参(まゐ)りて」など謠(うた)ふやうにする。それはしも、まことによき人(ひと)のし給(たま)ひしを見(み)しかば、心(こころ)づきなしと思(おも)ふなり。

  もの羨(うらや)みし、身(み)の上(うへ)嘆(なげ)き、人(ひと)の上(うへ)言(い)ひ、露(つゆ)塵(ちり)のこともゆかしがり、聞(き)かまほしうして、言(い)ひ知(し)らせぬをば、怨(ゑん)じそしり、また僅(わづ)かに聞(き)き得(え)たることをば、わがもとより知(し)りたることのやうに、異人(ことひと)にも語(かた)り調(しら)ぶるも、いとにくし。

 

 

(第二六段(だいにじゅうろくだん))

  心(こころ)ときめきするもの  雀(すずめ)の子飼(こが)い。乳児(ちご)遊(あそ)ばする所(ところ)の前(まへ)渡(わた)る。よき薫(た)き物(もの)たきて、一人(ひとり)臥(ふ)したる。唐鏡(からかがみ)のすこし暗(くら)き見(み)たる。よき男(をとこ)の、車(くるま)停(とど)めて、案内(あない)し問(と)はせたる。頭(かしら)洗(あら)ひ、化粧(けさう)じて、香(かう)ばしう染(し)みたる衣(きぬ)など着(き)たる。ことに見(み)る人(ひと)なき所(ところ)にても、心(こころ)のうちは、なほいとをかし。待(ま)つ人(ひと)などのある夜(よ)、雨(あめ)の音(おと)、風(かぜ)の吹(ふ)き揺(ゆ)るがすも、ふと驚(おどろ)かる。

 

 

(第二七段(だいにじゅうななだん))

  過(す)ぎにし方(かた)恋(こひ)しきもの  枯(か)れたる葵(あふひ)。雛遊(ひひなあそ)びの調度(でうど)。二藍(ふたあゐ)、葡萄染(えびぞめ)などの裂栲(さいで)の、押(お)し圧(へ)されて、草子(さうし)の中(なか)などにありける、見(み)つけたる。また、折(をり)からあはれなりし人(ひと)の文(ふみ)、雨(あめ)など降(ふ)りつれづれなる日(ひ)、探(さが)し出(い)でたる。去年(こぞ)のかはほり。

 

 

(第三三段(だいさんじゅうさんだん))

  (七月(ふみづき)ばかり、いみじう暑(あつ)ければ)  いとつややかなる板(いた)の端(はし)近(ちか)う、鮮(あざ)やかなる畳(たたみ)一枚(ひとひら)うち敷(し)きて、三尺(さんじやく)の几帳(きちやう)、奥(おく)の方(かた)に押(お)しやりたるぞ、あぢきなき。端(はし)にこそ立(た)つべけれ。奥(おく)の後(うしろ)めたからむよ。人(ひと)は出(い)でにけるなるべし、薄色(うすいろ)の、裏(うら)いと濃(こ)くて、表(うへ)はすこしかへりたるならずは、濃(こ)き綾(あや)のつややかなるが、いと萎(な)えぬを、頭(かしら)ごめに引(ひ)き着(き)てぞ寝(ね)たる。香染(かうぞ)めの単衣(ひとへ)、もしは黄(き)生絹(すずし)の単衣(ひとへ)、紅(くれなゐ)の一重袴(ひとへばかま)の腰(こし)のいと長(なが)やかに衣(きぬ)の下(した)より引(ひ)かれたるも、まだ解(と)けながらなめり。そばの方(かた)に髮(かみ)のうち畳(たた)なはりてゆるらかなるほど、長(なが)さ推(お)し測(はか)られたるに、またいづこよりにかあらむ、朝(あさ)ぼらけのいみじう霧(き)り立(た)ちたるに、二藍(ふたあゐ)の指貫(さしぬき)に、あるかなきかの色(いろ)したる香染(かうぞ)めの狩衣(かりぎぬ)、白(しろ)き生絹(すずし)に紅(くれなゐ)の透(とほ)すにこそはあらめ、つややかなる、霧(きり)にいたうしめりたるを脱(ぬ)ぎたれて、鬢(びん)のすこしふくだみたれば、烏帽子(えぼうし)の押(お)し入(い)れたる気色(けしき)もしどけなく見(み)ゆ。朝顔(あさがほ)の露(つゆ)落(お)ちぬさきに文(ふみ)書(か)かむと、道(みち)のほども心(こころ)もとなく、「麻生(をふ)の下草(したくさ)」など、口(くち)ずさみつつ、我(わ)が方(かた)に行(い)くに、格子(かうし)の上(あ)がりたれば、御簾(みす)のそばをいささか引(ひ)き上(あ)げて見(み)るに、起(お)きて去(い)ぬらむ人(ひと)もをかしう、露(つゆ)もあはれなるにや、しばし見立(みた)てれば、枕上(まくらがみ)の方(かた)に、朴(ほほ)に紫(むらさき)の紙(かみ)張(は)りたる扇(あふぎ)、広(ひろ)ごりながらあり。

 

 

(第三四段(だいさんじゅうよんだん))

  木(こ)の花(はな)は濃(こ)きも薄(うす)きも、紅梅(こうばい)。桜(さくら)は、花(はな)びら大(おほ)きに、葉(は)の色(いろ)濃(こ)きが、枝(えだ)細(ほそ)くて咲(さ)きたる。藤(ふぢ)の花(はな)は、しなひ長(なが)く、色(いろ)濃(こ)く咲(さ)きたる、いとめでたし。

  四月(うづき)の晦日(つごもり)、五月(さつき)の朔日(ついたち)の頃(ころ)ほひ、橘(たちばな)の葉(は)の濃(こ)く青(あを)きに、花(はな)のいと白(しろ)う咲(さ)きたるが、雨(あめ)うち降(ふ)りたる早朝(つとめて)などは、世(よ)になう心(こころ)あるさまに、をかし。花(はな)の中(なか)より黄金(こがね)の玉(たま)かと見(み)えて、いみじう鮮(あざ)やかに見(み)えたるなど、朝露(あさつゆ)に濡(ぬ)れたる朝(あさ)ぼらけの桜(さくら)に劣(おと)らず。郭公(ほととぎす)のよすがとさへ思(おも)へばにや、なほ、さらに言(い)ふべうもあらず。

  梨(なし)の花(はな)、よにすさまじきものにして、近(ちか)うもてなさず、はかなき文(ふみ)付(つ)けなどだにせず、愛敬(あいぎやう)おくれたる人(ひと)の顔(かほ)などを見(み)ては、たとひに言(い)ふも、げに、葉(は)の色(いろ)よりはじめて、あはひなく見(み)ゆるを、唐土(もろこし)には限(かぎ)りなきものにて、詩(ふみ)にも作(つく)る、なほさりとも、やうあらむと、せめて見(み)れば、花(はな)びらの端(はし)にをかしき匂(にほ)ひこそ、心(こころ)もとなうつきためれ。楊貴妃(やうきひ)の、帝(みかど)の御使(おんつか)ひに会(あ)ひて泣(な)きける顔(かほ)に似(に)せて、「梨花(りくわ)一枝(いつし)、春(はる)、雨(あめ)を帯(お)びたり」など言(い)ひたるは、おぼろけならじと思(おも)ふに、なほいみじうめでたきことは、類(たぐひ)あらじとおぼえたり。

 

 

(第三六段(だいさんじゅうろくだん))

(節(せち)は)  空(そら)の気色(けしき)、曇(くも)り渡(わた)りたるに、中宮(ちゅうぐう)などには、縫殿(ぬひどの)より、御薬玉(おんくすだま)とて色々(いろいろ)の糸(いと)を組(く)み下(さ)げて参(まゐ)らせたれば、御帳(みちやう)立(た)てたる母屋(もや)の柱(はしら)に左右(ひだりみぎ)に付(つ)けたり。九月(ながつき)九日(ここぬか)の菊(きく)を、あやしき生絹(すずし)の衣(きぬ)に包(つつ)みて参(まゐ)らせたるを、同(おな)じ柱(はしら)に結(ゆ)ひ付(つ)けて、月(つき)ごろある、薬玉(くすだま)に取(と)り替(か)へてぞ捨(す)つめる。また薬玉(くすだま)は菊(きく)の折(をり)まであるべきにやあらむ。されどそれは、皆(みな)、糸(いと)を引(ひ)き取(と)りて、もの結(ゆ)ひなどして、しばしもなし。

image00002.jpg

  御節供(おほんせく)参(まゐ)り、若(わか)き人々(ひとびと)、菖蒲(さうぶ)の刺櫛(さしぐし)さし、物忌(ものい)み付(つ)けなどして、さまざま、唐衣(からぎぬ)、汗衫(かざみ)などに、をかしき折(をり)枝(えだ)ども、長(なが)き根(ね)にむら濃(ご)の組(くみ)して結(むす)び付(つ)けたるなど、珍(めづら)しう言(い)ふべきことならねど、いとをかし。さて、春(はる)ごとに咲(さ)くとて、桜(さくら)をよろしう思(おも)ふ人(ひと)やはある。

  土(つち)歩(あり)く童(わらはべ)などの、ほどほどにつけてはいみじきわざしたりと思(おも)ひて、常(つね)に袂(たもと)まぼり、人(ひと)のに比(くら)べなど、えも言(い)はずと思(おも)ひたるなどを、そばへたる小舎人童(こどねりわらは)などに引(ひ)きはられて泣(な)くも、をかし。

  紫(むらさき)の紙(かみ)に楝(あふち)の花(はな)、青(あを)き紙(かみ)に菖蒲(さうぶ)の葉(は)細(ほそ)く巻(ま)きて結(ゆ)ひ、また、白(しろ)き紙(かみ)を根(ね)して引(ひ)き結(ゆ)ひたるも、をかし。いと長(なが)き根(ね)を文(ふみ)の中(なか)に入(い)れなどしたるを見(み)る心地(ここち)ども、いと艶(えん)なり。返事(かへりこと)書(か)かむと言(い)ひあはせ、語(かた)らふどちは、見(み)せ交(か)はしなどするも、いとをかし。人(ひと)の女(むすめ)、やむごとなき所々(ところどころ)に、御文(おんふみ)など聞(き)こえ給(たま)ふ人(ひと)も、今日(けふ)は心(こころ)異(こと)にぞなまめかしき。夕暮(ゆふぐ)れのほどに、郭公(ほととぎす)の名(な)のりして渡(わた)るも、すべていみじき。

 

 

(第三八段(だいさんじゅうはちだん))

  鳥(とり)は、異所(ことどころ)のものなれど、鸚鵡(あうむ)、いとあはれなり。人(ひと)の言(い)ふらむことをまねぶらむよ。郭公(ほととぎす)。水鶏(くひな)。鴫(しぎ)。都鳥(みやこどり)。鶸(ひは)。鶲(ひたき)。

  山鳥(やまどり)、友(とも)を恋(こ)ひて、鏡(かがみ)を見(み)すれば慰(なぐさ)むらむ、心(こころ)若(わか)う、いとあはれなり。谷(たに)隔(へだ)てたるほどなど、心苦(こころぐる)し。

  鶴(つる)は、いとこちたきさまなれど、鳴(な)く声(こゑ)の雲居(くもゐ)まで聞(き)こゆる、いとめでたし。頭(かしら)赤(あか)き雀(すずめ)。斑鳩(いかるが)の雄鳥(をどり)。巧(たく)み鳥(どり)。

  鷺(さぎ)は、いと見目(みめ)も見苦(みぐる)し。眼居(まなこゐ)なども、うたてよろづになつかしからねど、「ゆるぎの森(もり)にひとりは寝(ね)じ」と争(あらそ)ふらむ、をかし。水鳥(みづどり)、鴛鴦(をし)いとあはれなり。かたみにゐかはりて、羽(はね)の上(うへ)の霜(しも)払(はら)ふらむほどなど。千鳥(ちどり)、いとをかし。

 

 

(第三九段(だいさんじゅうきゅうだん))

  あてなるもの  薄色(うすいろ)に白襲(しらがさね)の汗衫(かざみ)。雁(かり)の子(こ)。削(けづ)り氷(ひ)に甘葛(あまづら)入(い)れて、新(あたら)しき鋺(かなまり)に入(い)れたる。水晶(すいさう)の数珠(ずず)。藤(ふぢ)の花(はな)。梅(むめ)の花(はな)に雪(ゆき)の降(ふ)りかかりたる。いみじううつくしき児(ちご)の、いちごなど食(く)ひたる。

 

 

(第四十段(だいよんじゅうだん))

  虫(むし)は鈴虫(すずむし)。茅蜩(ひぐらし)。蝶(てふ)。松虫(まつむし)。蟋蟀(きりぎりす)。機織(はたお)り。われから。ひをむし。蛍(ほたる)。

  蓑虫(みのむし)、いとあはれなり。鬼(おに)の生(う)みたりければ、親(おや)に似(に)てこれも恐(おそろ)しき心(こころ)あらむとて、親(おや)のあやしき衣(きぬ)引(ひ)き着(き)せて、「今(いま)、秋風(あきかぜ)吹(ふ)かむ折(をり)ぞ、来(こ)むとする。待(ま)てよ」と言(い)ひ置(お)きて逃(に)げて去(い)にけるも知(し)らず、風(かぜ)の音(おと)を聞(き)き知(し)りて、八月(はづき)ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」と、はかなげに鳴(な)く、いみじうあはれなり。

  額(ぬか)づき虫(むし)、またあはれなり。さる心地(ここち)に道心(だうしん)おこして、つき歩(あり)くらむよ。思(おも)ひかけず、暗(くら)き所(ところ)などにほとめき歩(あり)きたるこそ、をかしけれ。

  蝿(はへ)こそ、憎(にく)きもののうちに入(い)れつべく、愛敬(あいぎやう)なきものはあれ。人々(ひとびと)しう、敵(かたき)などにすべき物(もの)の大(おほ)きさにはあらねど、秋(あき)など、ただよろづの物(もの)に居(ゐ)、顔(かほ)などに濡(ぬ)れ足(あし)して居(ゐ)るなどよ。人(ひと)の名(な)につきたる、いとうとまし。

  夏虫(なつむし)、いとをかしう、らうたげなり。火(ひ)近(ちか)う取(と)り寄(よ)せて物語(ものがたり)など見(み)るに草子(さうし)の上(うへ)などに飛(と)びありく、いとをかし。

  蟻(あり)は、いと憎(にく)けれど、軽(かろ)びいみじうて、水(みづ)の上(うへ)などをただ歩(あゆ)みに歩(あゆ)みありくこそ、をかしけれ。

 

 

(第四一段(だいよんじゅういちだん))

  七月(ふみづき)ばかりに、風(かぜ)いたう吹(ふ)きて、雨(あめ)など騒(さわ)がしき日(ひ)、おほかたいと涼(すず)しければ、扇(あふぎ)もうち忘(わす)れたるに、汗(あせ)の香(か)すこしかかへたる綿衣(わたぎぬ)の薄(うす)きをいとよく引(ひ)き着(き)て、昼寝(ひるね)したるこそ、をかしけれ。

 

 

(第四二段(だいよんじゅうにだん))

  にげなきもの  下衆(げす)の家(いへ)に雪(ゆき)の降(ふ)りたる。また、月(つき)のさし入(い)りたるも、くちをし。月(つき)の明(あ)かきに、屋形(やかた)なき車(くるま)の会(あ)ひたる。また、さる車(くるま)に、あめ牛(うし)かけたる。また、老(お)いたる女(をんな)の、腹(はら)高(たか)くて歩(あり)く。若(わか)き男(をとこ)持(も)ちたるだに見苦(みぐる)しきに、異人(ことひと)のもとへ行(い)きたるとて、腹立(はらた)つよ。

  老(お)いたる男(をとこ)の、寝(ね)まどひたる。また、さやうに鬚(ひげ)がちなる者(もの)の、椎(しひ)齧(つ)みたる。歯(は)もなき女(をんな)の、梅(むめ)食(く)ひて酸(す)がりたる。下衆(げす)の、紅(くれなゐ)の袴(はかま)着(き)たる。このころは、それのみぞあめる。

 

 

(第四六段(だいよんじゅうろくだん))

  (職(しき)の御曹司(みざうし)の西面(にしおもて)の)  いみじう見(み)えきこえて、をかしき筋(すぢ)など立(た)てたることはなう、ただありなるやうなるを、皆人(みなひと)さのみ知(し)りたるに、なほ奥深(おくふか)き心(こころ)ざまを見知(みし)りたれば、「おしなべたらず」など、御前(おまへ)にも啓(けい)し、また、さ知(し)ろしめしたるを、常(つね)に、「『女(をんな)は己(おのれ)を説(よろこ)ぶ者(もの)のために顔(かほ)づくりす。士(し)は己(おのれ)を知(し)る者(もの)のために死(し)ぬ』となむ言(い)ひたる」と、言(い)ひあはせ給(たま)ひつつ、よう知(し)り給(たま)へり。「遠江(とほたあふみ)の浜(はま)柳(やなぎ)」と言(い)ひかはしてあるに、若(わか)き人々(ひとびと)は、ただ言(い)ひに見苦(みぐる)しきことどもなどつくろはず言(い)ふに、「この君(きみ)こそ、うたて見(み)えにくけれ。異人(ことひと)のやうに歌(うた)うたひ興(きよう)じなどもせず、けすさまじ」など、そしる。

  さらにこれかれにもの言(い)ひなどもせず、「まろは、目(め)は縦(たた)さまに付(つ)き、眉(まゆ)は額(ひたひ)さまに生(お)ひあがり、鼻(はな)は横(よこ)さまなりとも、ただ口(くち)つき愛敬(あいぎやう)づき、頤(おとがひ)の下(した)、頸(くび)清(きよ)げに、声(こゑ)にくからざらむ人(ひと)のみなむ、思(おも)はしかるべき。とは言(い)ひながら、なほ、顔(かほ)いとにくげならむ人(ひと)は、心憂(こころう)し」とのみ、宣(のたま)へば、まして、頤(おとがひ)細(ほそ)う、愛敬(あいぎやう)おくれたる人(ひと)などは、あいなく敵(かたき)にして、御前(ごぜん)にさへぞ、悪(あ)しざまに啓(けい)する。

 

 

(第五九段(だいごじゅうきゅうだん))

  河(かは)は、飛鳥川(あすかがは)、淵瀬(ふちせ)も定(さだ)めなく、いかならむと、あはれなり。大井河(おほゐがは)。音無川(おとなしがは)。七瀬川(ななせがは)。

  耳敏川(みみとがは)、またもなにごとをさくじり聞(き)きけむと、をかし。玉星川(たまほしがは)。細谷川(ほそたにがは)。五貫川(いつぬきがは)、沢田川(さはだがは)などは、催馬楽(さいばら)などの思(おも)はするなるべし。名取川(なとりがは)、いかなる名(な)を取(と)りたるならむと、聞(き)かまほし。吉野河(よしのがは)。天(あま)の河原(かはら)、「棚機(たなばた)つ女(め)に宿(やど)借(か)らむ」と、業平(なりひら)が詠(よ)みたるも、をかし。

 

 

(第六十段(だいろくじゅうだん))

(暁(あかつき)に帰(かへ)らむ人(ひと)は)  人(ひと)はなほ、暁(あかつき)のありさまこそ、をかしうもあるべけれ。わりなくしぶしぶに、起(お)きがたげなるを、強(し)ひてそそのかし、「明(あ)け過(す)ぎぬ。あな見苦(みぐる)し」など言(い)はれて、うち嘆(なげ)く気色(けしき)も、げに飽(あ)かずもの憂(う)くもあらむかし、と見(み)ゆ。指貫(さしぬき)なども、居(ゐ)ながら着(き)もやらず、まづさし寄(よ)りて、夜(よる)言(い)ひつることの名残(なごり)、女(をんな)の耳(みみ)に言(い)ひ入(い)れて、なにわざすともなきやうなれど、帯(おび)など結(ゆ)ふやうなり。格子(かうし)押(お)し上(あ)げ、妻戸(つまど)ある所(ところ)は、やがてもろともに率(ゐ)て行(い)きて、昼(ひる)のほどのおぼつかなからむことなども言(い)ひ出(い)でにすべり出(い)でなむは、見送(みおく)られて、名残(なごり)もをかしかりなむ。思(おも)ひ出(い)で所(ところ)ありて、いときはやかに起(お)きて、ひろめきたちて、指貫(さしぬき)の腰(こし)こそこそとかはは結(ゆ)ひ、直衣(なほし)、袍(うへのきぬ)、狩衣(かりぎぬ)も、袖(そで)かいまくりて、よろづさし入(い)れ、帯(おび)いとしたたかに結(ゆ)ひ果(は)てて、つい居(ゐ)て、鳥帽子(えぼうし)の緒(を)、きと強(つよ)げに結(ゆ)ひ入(い)れて、かいすふる音(おと)して、扇(あふぎ)、畳紙(たたうがみ)など、昨夜(よべ)枕上(まくらがみ)に置(お)きしかど、おのづから引(ひ)かれ散(ち)りにけるを求(もと)むるに、暗(くら)ければ、いかでかは見(み)えむ、「いづら、いづら」と叩(たた)きわたし、見(み)出(い)でて、扇(あふぎ)ふたふたと使(つか)ひ、懐紙(ふところがみ)さし入(い)れて、「まかりなむ」とばかりこそ言(い)ふらめ。

 

 

(第六四段(だいろくじゅうよんだん))

  (草(くさ)の花(はな)は)  萩(はぎ)、いと色(いろ)深(ふか)う、枝(えだ)たをやかに咲(さ)きたるが、朝露(あさつゆ)に濡(ぬ)れてなよなよと広(ひろ)ごり伏(ふ)したる。さ牡鹿(をしか)のわきて立(た)ち馴(な)らすらむも、心(こころ)異(こと)なり。八重(やへ)山吹(やまぶき)。

  夕顔(ゆふがほ)は、花(はな)の形(かたち)も朝顔(あさがほ)に似(に)て、言(い)ひ続(つづ)けたるにいとをかしかりぬべき花(はな)の姿(すがた)に、実(み)のありさまこそ、いとくちをしけれ。などて、さはた生(お)ひ出(い)でけむ。ぬかづきといふもののやうにだにあれかし。されどなほ夕顔(ゆふがほ)といふ名(な)ばかりは、をかし。しもつけの花(はな)。蘆(あし)の花(はな)。

  これに薄(すすき)を入(い)れぬ、いみじうあやしと、人(ひと)言(い)ふめり。秋(あき)の野(の)のおしなべたるをかしさは、薄(すすき)こそあれ。穂先(ほさき)の蘇枋(すはう)にいと濃(こ)きが、朝霧(あさぎり)に濡(ぬ)れてうちなびきたるは、さばかりのものやはある。秋(あき)の果(は)てぞ、いと見所(みどころ)なき。色々(いろいろ)に乱(みだ)れ咲(さ)きたりし花(はな)の、かたもなく散(ち)りたるに、冬(ふゆ)の末(すゑ)まで頭(かしら)の白(しろ)くおほどれたるも知(し)らず、昔(むかし)思(おも)ひ出(い)で顔(がほ)に風(かぜ)になびきてかひろぎ立(た)てる、人(ひと)にこそいみじう似(に)たれ。よそふる心(こころ)ありて、それをしもこそ、あはれと思(おも)ふべけれ。

 

 

(第七二段(だいななじゅうにだん))

  ありがたきもの  舅(しうと)にほめらるる婿(むこ)。また、姑(しうとめ)に思(おも)はるる嫁(よめ)の君(きみ)。毛(け)のよく抜(ぬ)くる銀(しろかね)の毛抜(けぬ)き。主(しゆう)そしらぬ従者(ずさ)。

  つゆの癖(くせ)なき。容貌(かたち)・心(こころ)・ありさますぐれ、世(よ)に経(ふ)るほど、いささかの疵(きず)なき。同(おな)じ所(ところ)に住(す)む人(ひと)の、かたみに恥(は)ぢかはし、いささかのひまなく用意(ようい)したりと思(おも)ふが、つひに見(み)へぬこそ、難(かた)けれ。

  物語(ものがたり)、集(しふ)など書(か)き写(うつ)すに、本(ほん)に墨(すみ)つけぬ。よき草子(さうし)などは、いみじう心(こころ)して書(か)けど、必(かなら)ずこそ汚(きた)なげになるめれ。

  男(をとこ)・女(をんな)をば言(い)はじ、女(をんな)どちも、契(ちぎ)り深(ふか)くて語(かた)らふ人(ひと)の、末(すゑ)まで仲(なか)よきこと、難(かた)し。

 

 

(第七三段(だいななじゅうさんだん))

  内裏(うち)の局(つぼね)は、細殿(ほそどの)いみじうをかし。上(かみ)の蔀(しとみ)上(あ)げたれば、風(かぜ)いみじう吹(ふ)き入(い)れて、夏(なつ)もいみじう涼(すず)し。冬(ふゆ)は、雪(ゆき)・霰(あられ)などの、風(かぜ)にたぐひて降(ふ)り入(い)りたるも、いとをかし。狭(せば)くて、童(わらはべ)などののぼりぬるぞ、あしけれども、屏風(びやうぶ)のうちに隠(かく)し据(す)ゑたれば、異所(ことどころ)の局(つぼね)のやうに、声(こゑ)高(たか)くゑ笑(わら)ひなどもせで、いとよし。

  昼(ひる)なども、たゆまず心遣(こころづか)ひせらる。夜(よる)は、まいて、うちとくべきやうもなきが、いとをかしきなり。沓(くつ)の音(おと)、夜(よ)一夜(ひとよ)聞(き)こゆるが、とどまりて、ただ指(および)一(ひと)つして叩(たた)くが、その人(ひと)ななりと、ふと聞(き)こゆるこそをかしけれ。いと久(ひさ)しう叩(たた)くに、音(おと)もせねば、寝入(ねい)りたりとや思(おも)ふらむと、ねたくて、すこしうちみじろく衣(きぬ)の気配(けはひ)、さななりと思(おも)ふらむかし。冬(ふゆ)は、火桶(ひをけ)にやをら立(た)つる箸(はし)の音(おと)も、忍(しの)びたりと聞(き)こゆるを、いとど叩(たた)きはらへば、声(こゑ)にても言(い)ふに、かげながらすべり寄(よ)りて聞(き)く時(とき)もあり。

  また、あまたの声(こゑ)して詩(し)誦(ず)じ、歌(うた)などうたふには、叩(たた)かねどまづ開(あ)けたれば、此処(ここ)へとしも思(おも)はざりける人(ひと)も、立(た)ち止(と)まりぬ。居(ゐ)るべきやうもなくて立(た)ち明(あ)かすも、なほをかし。

 

 

(第七八段(だいななじゅうはちだん))

(頭(とう)の中将(ちゆうじやう)の、すずろなる虚言(そらごと)を)  「ただここもとに、人伝(ひとづ)てならで申(まう)すべきことなむ」と言(い)へば、さし出(い)でて問(と)ふに、「これ頭(とう)の殿(との)の奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御返事(おんかへりこと)、疾(と)く」と言(い)ふ。いみじくにくみ給(たま)ふに、いかなる文(ふみ)ならむと思(おも)へど、ただ今(いま)、急(いそ)ぎ見(み)るべきにもあらねば、「去(い)ね、今(いま)聞(き)こえむ」とて、懷(ふところ)に引(ひ)き入(い)れて入(い)りぬ。なほ人(ひと)のもの言(い)ふ、聞(き)きなどする、すなはち立(た)ち帰(かへ)り来(き)て、「『さらば、そのありつる御文(おんふみ)を賜(たま)はりて来(こ)』となむ、仰(おほ)せらるる。疾(と)く疾(と)く」と言(い)ふが、あやしう、『いをの物語(ものがたり)』なりや、とて、見(み)れば、青(あを)き薄樣(うすやう)に、いと清(きよ)げに書(か)き給(たま)へり。心(こころ)ときめきしつるさまにもあらざりけり。


蘭省(らんせいの)花時(はなのとき)錦帳下(きんちやうのもと)

と書(か)きて、「末(すゑ)はいかに、末(すゑ)はいかに」とあるを、いかにかはすべからむ。御前(ごぜん)おはしまさば、御(ご)覧(らん)ぜさすべきを、これが末(すゑ)を知(し)り顏(がほ)に、たどたどしき真名(まんな)に書(か)きたらむもいと見苦(みぐる)しと、思(おも)ひまはすほどもなく責(せ)めまどはせば、ただその奧(おく)に、炭櫃(すびつ)に消(き)え炭(すみ)のあるして、


草(くさ)の庵(いほり)を誰(たれ)か尋(たづ)ねむ

と書(か)きつけて取(と)らせつれど、また返事(かへりこと)も言(い)わず。

 

 

(第八十段(だいはちじゅうだん))

  (里(さと)にまかでたるに)  さて後(のち)、来(き)て、「一夜(ひとよ)は責(せ)めたてられて、すずろなる所々(ところどころ)になむ、率(ゐ)て歩(あり)き奉(たてまつ)りし。まめやかにさいなむに、いとからし。さて、など、ともかくも御返(おんかへ)りはなくて、すずろなる布(め)の端(はし)をば包(つつ)みて賜(たま)へりしぞ。あやしの包(つつ)み物(もの)や。人(ひと)のもとにさる物(もの)包(つつ)みて送(おく)るやうやはある。取(と)り違(たが)へたるか」と言(い)ふ。いささか心(こころ)も得(え)ざりけると見(み)るがにくければ、ものも言(い)はで、硯(すずり)にある紙(かみ)の端(はし)に、


かづきする海女(あま)のすみかをそことだにゆめ言(い)ふなとやめをくはせけむ

と書(か)きてさし出(い)でたれば、「歌(うた)詠(よ)ませ給(たま)へるか、さらに見(み)侍(はべ)らじ」とて扇(あふ)ぎ返(かへ)して逃(に)げて去(い)ぬ。

 

 

(第八九段(だいはちじゅうきゅうだん))

  無名(むみやう)といふ琵琶(びは)の御琴(おんこと)を、上(うへ)の持(も)て渡(わた)らせ給(たま)へるに、見(み)などして、かき鳴(な)らしなどすと言(い)へば、弾(ひ)くにはあらで、緒(を)などを手(て)まさぐりにして、「これが名(な)よ、いかにとか」と聞(き)こえさするに、「ただいとはかなく、名(な)もなし」と宣(のたま)はせたるは、なほいとめでたしとこそおぼえしか。

  淑景舎(しげいさ)など渡(わた)り給(たま)ひて、御物語(おんものがたり)のついでに、「まろがもとに、いとをかしげなる笙(しやう)の笛(ふえ)こそあれ。故殿(ことの)の得(え)させ給(たま)へりし」と宣(のたま)ふを、僧都(そうづ)の君(きみ)、「それは隆円(りゆうゑん)に賜(たま)へ。おのがもとに、めでたき琴(きん)侍(はべ)り。それに換(か)へさせ給(たま)へ」と申(まう)し給(たま)ふを、聞(き)きも入(い)れ給(たま)はで、異事(ことこと)を宣(のたま)ふに、答(いら)へさせ奉(たてまつ)らむとあまたたび聞(き)こえ給(たま)ふに、なほものも宣(のたま)はねば、宮(みや)の御前(おまへ)の「いな、換(か)へじ、とおぼしたるものを」と宣(のたま)はせたる御気色(みけしき)の、いみじうをかしきことぞ限(かぎ)りなき。

  この御笛(おんふえ)の名(な)を、僧都(そうづ)の君(きみ)もえ知(し)り給(たま)はざりければ、ただ恨(うら)めしうおぼいためる。これは、職(しき)の御曹司(みざうし)におはしまいしほどのことなめり。上(うへ)の御前(おまへ)に、「いなかへじ」といふ御笛(おんふえ)の候(さぶら)ふなり。

  御前(ごぜん)に候(さぶら)ふものは、御琴(おんこと)も御笛(おんふえ)も、みな珍(めづら)しき名(な)つきてぞある。

  玄上(げんじやう)・牧馬(ぼくば)・井手(ゐで)・渭橋(ゐけう)・無名(むみやう)など。また和琴(わごん)なども、朽目(くちめ)・塩窯(しほがま)・二貫(ふたぬき)などぞ聞(き)こゆる。水竜(すいろう)・小水竜(こすいろう)・宇多(うだ)の法師(ほふし)・釘打(くぎうち)・葉二(はふたつ)、なにくれなど多(おほ)く聞(き)きしかど、忘(わす)れにけり。「宜陽殿(ぎやうでん)の一(いち)の棚(たな)に」といふ言(こと)くさは、頭(とう)の中将(ちゆうじやう)こそし給(たま)ひしか。

 

 

(第九一段(だいきゅうじゅういちだん))

  ねたきもの  人(ひと)のもとにこれより遣(や)るも、人(ひと)の返事(かへりこと)も、書(か)きて遣(や)りつる後(のち)、文字(もじ)一(ひと)つ二(ふた)つ思(おも)ひ直(なほ)したる。

  とみの物(もの)縫(ぬ)ふに、かしこう縫(ぬ)ひつと思(おも)ふに、針(はり)を引(ひ)き抜(ぬ)きつれば、はやく後(しり)を結(むす)ばざりけり。また、かへさまに縫(ぬ)ひたるも、ねたし。

  南(みなみ)の院(ゐん)におはしますころ、「とみの御物(おんもの)なり。誰(たれ)も誰(たれ)も、時(とき)かはさず、あまたして縫(ぬ)ひて参(まゐ)らせよ」とて、賜(たま)はせたるに、南面(みなみおもて)に集(あつ)まりて、御衣(おんぞ)の片身(かたみ)づつ、誰(たれ)かとく縫(ぬ)ふと、近(ちか)くも向(む)かはず縫(ぬ)ふさまも、いともの狂(ぐる)ほし。命婦(みやうぶ)の乳母(めのと)、いととく縫(ぬ)ひ果(は)ててうち置(お)きつる、ゆだけのかたの身(み)を縫(ぬ)ひつるが、そむきざまなるを見(み)つけで、綴(と)ぢ目(め)もしあへず、まどひ置(お)きて立(た)ちぬるが、御背(おんせ)合(あ)はすれば、はやく違(たが)ひたりけり。笑(わら)ひののしりて、「早(はや)くこれ縫(ぬ)ひ直(なほ)せ」と言(い)ふを、「誰(たれ)、あしう縫(ぬ)ひたりと知(し)りてか直(なほ)さむ、綾(あや)などならばこそ、裏(うら)を見(み)ざらむ人(ひと)も、げにと直(なほ)さめ。無文(むもん)の御衣(おんぞ)なれば、なにをしるしにてか、直(なほ)す人(ひと)誰(たれ)もあらむ。まだ縫(ぬ)ひ給(たま)はぬ人(ひと)に直(なほ)させよ」とて、聞(き)かねば、「さ言(い)ひてあらむや」とて、源少納言(げんせうなごん)、中納言(ちゆうなごん)の君(きみ)などいふ人(ひと)たち、もの憂(う)げに取(と)り寄(よ)せて縫(ぬ)ひ給(たま)ひしを、見(み)やりてゐたりしこそ、をかしかりしか。

 

 

(第九二段(だいきゅうじゅうにだん))

  かたはらいたきもの  客人(まらうと)などにあひてもの言(い)ふに、奧(おく)の方(かた)にうちとけ言(ごと)など言(い)ふを、えは制(せい)せで聞(き)く心地(ここち)。思(おも)ふ人(ひと)のいたく醉(ゑ)ひて同(おな)じことしたる。聞(き)き居(ゐ)たりけるを知(し)らで、人(ひと)の上(うへ)言(い)ひたる。それは、なにばかりならねど、使(つか)ふ人(ひと)などだに、いとかたはらいたし。旅立(たびだ)ちたる所(ところ)にて、下衆(げす)どもの戯(ざ)れ居(ゐ)たる。

  にくげなるちごを、おのが心地(ここち)のかなしきままに、うつくしみかなしがり、これが声(こゑ)のままに、言(い)ひたることなど語(かた)りたる。才(ざえ)ある人(ひと)の前(まへ)にて、才(ざえ)なき人(ひと)のものおぼえ顔(がほ)に人(ひと)の名(な)など言(い)ひたる。ことによしともおぼえぬ我(わ)が歌(うた)を人(ひと)に語(かた)りて、人(ひと)の褒(ほ)めなどしたる由(よし)言(い)ふも、かたはらいたし。

 

 

(第九三段(だいきゅうじゅうさんだん))

  あさましきもの  刺櫛(さしぐし)すりて磨(みが)くほどに、物(もの)に突(つ)き障(さ)へて折(を)りたる心地(ここち)。車(くるま)のうち返(かへ)りたる。さるおほのかなる物(もの)は、所(ところ)狭(せ)くやあらむと思(おも)ひしに、ただ夢(ゆめ)の心地(ここち)して、あさましうあへなし。

  人(ひと)のために恥(は)づかしうあしきことを、慎(つつ)みもなく、言(い)ひゐたる。かならず来(き)なむと思(おも)ふ人(ひと)を、夜(よ)一夜(ひとよ)起(お)き明(あ)かし待(ま)ちて、曉(あかつき)がたに、いささかうち忘(わす)れて寝入(ねい)りにけるに、烏(からす)のいと近(ちか)く、かかと鳴(な)くに、うち見(み)上(あ)げたれば、昼(ひる)になりにける、いみじうあさまし。見(み)すまじき人(ひと)に、ほかへ持(も)て行(い)く文(ふみ)見(み)せたる。むげに知(し)らず見(み)ぬことを、人(ひと)のさし向(む)かひて、争(あらが)はすべくもあらず言(い)ひたる。ものうちこぼしたる心地(ここち)、いとあさまし。

 

 

(第九四段(だいきゅうじゅうよんだん))

  くちをしきもの  五節(ごせち)、御仏名(おぶつみやう)に雪(ゆき)降(ふ)らで、雨(あめ)のかきくらし降(ふ)りたる。節会(せちゑ)などに、さるべき、御物忌(おんものい)みの当(あ)たりたる。いとなみ、いつしかと待(ま)つことの、障(さは)りあり、にはかに止(と)まりぬる。遊(あそ)びをもし、見(み)すべきことありて、呼(よ)びにやりたる人(ひと)の来(こ)ぬ、いとくちをし。

  男(をとこ)も女(をんな)も法師(ほふし)も、宮仕(みやづか)へ所(どころ)などより、同(おな)じやうなる人(ひと)もろともに、寺(てら)へ詣(まう)で、ものへも行(い)くに、好(この)ましうこぼれ出(い)で、用意(ようい)よくいはばけしからず、あまり見苦(みぐる)しとも見(み)つべくぞあるに、さるべき人(ひと)の、馬(むま)にても車(くるま)にても行(ゆ)きあひ、見(み)ずなりぬる、いとくちをし。わびては、好(す)き好(ず)きし下衆(げす)などの、人(ひと)などに語(かた)りつべからむをがな、と思(おも)ふも、いとけしからず。

 

 

(第九五段(だいきゅうじゅうごだん))

(五月(さつき)の御精進(みさうじ)のほど)  卯(う)の花(はな)のいみじう咲(さ)きたるを折(を)りて、車(くるま)の簾(すだれ)、傍(かたは)らなどに挿(さ)し余(あま)りて、おそひ・棟(むね)などに、長(なが)き枝(えだ)を葺(ふ)きたるやうに挿(さ)したれば、ただ卯(う)の花(はな)の垣根(かきね)を牛(うし)に懸(か)けたるとぞ見(み)ゆる。供(とも)なる男(をのこ)どもも、いみじう笑(わら)ひつつ、「ここまだし、ここまだし」と挿(さ)し合(あ)えり。

  人(ひと)も会(あ)はなむ、と思(おも)ふに、さらにあやしき法師(ほふし)、下衆(げす)の言(い)ふかひなきのみ、たまさかに見(み)ゆるに、いとくちをしくて、近(ちか)く来(き)ぬれど、「いとかくてやまむやは。この車(くるま)のありさまを人(ひと)に語(かた)らせてこそやまめ」とて、一条殿(いちでうどの)のほどにとどめて、「侍従殿(じじゆうどの)やおはします、郭公(ほととぎす)の声(こゑ)聞(き)きて、今(いま)なむ帰(かへ)る」と言(い)はせたる使(つか)ひ、「『ただ今(いま)参(まゐ)る。しばし。あが君(きみ)』となむ宣(のたま)へる。侍(さぶら)ひに真広(まひろ)げておはしつる、急(いそ)ぎ立(た)ちて、指貫(さしぬき)奉(たてまつ)りつ」と言(い)ふ。待(ま)つべきにもあらず、とて、走(はし)らせて、土御門(つちみかど)ざまへ遣(や)るに、いつの間(ま)にか裝束(さうぞ)きつらむ、帯(おび)は道(みち)のままに結(ゆ)ひて、「しばし、しばし」と追(お)ひ来(く)る供(とも)に、侍(さぶらひ)三(みたり)、四人(よたり)ばかり、物(もの)もはかで走(はし)るめり。「とく遣(や)れ」と、いとど急(いそ)がして、土御門(つちみかど)に行(い)き着(つ)きぬるにぞ、あへぎまどひておはして、この車(くるま)のさまをいみじう笑(わら)ひ給(たま)ふ。「現(うつつ)の人(ひと)の乗(の)りたるとなむ、さらに見(み)えぬ。なほ下(お)りて見(み)よ」など笑(わら)ひ給(たま)へば、供(とも)に走(はし)りつる人(ひと)どもも興(きよう)じ笑(わら)ふ。「歌(うた)はいかが、それ聞(き)かむ」と宣(のたま)へば、「今(いま)、御前(おまへ)に御覧(ごらん)ぜさせて後(のち)こそ」など言(い)ふほどに、雨(あめ)まことに降(ふ)りぬ。

 

  二日(ふつか)ばかりありて、その日(ひ)のことなど言(い)ひ出(い)づるに、宰相(さいしやう)の君(きみ)、「いかにぞ。手(て)づから折(を)りたると言(い)ひし下蕨(したわらび)は」と、宣(のたま)ふを聞(き)かせ給(たま)ひて、「思(おも)ひ出(い)づることのさまよ」と笑(わら)はせ給(たま)ひて、紙(かみ)の散(ち)りたるに、


下蕨(したわらび)こそ恋(こひ)しかりけれ

と書(か)かせ給(たま)ひて、「本(もと)言(い)へ」と仰(おほ)せらるるも、いとをかし。


郭公(ほととぎす)たづねて聞(き)きし声(こゑ)よりも

と書(か)きて参(まゐ)らせたれば、「いみじううけばりたりや。かうだに、いかで郭公(ほととぎす)のことをかけつらむ」と笑(わら)はせ給(たま)ふも恥(は)づかしながら、「なにか、この歌(うた)、すべて詠(よ)み侍(はべ)らじ、となむ思(おも)ひ侍(はべ)るを、ものの折(をり)など、人(ひと)の詠(よ)み侍(はべ)らむにも、『詠(よ)め』など仰(おほ)せられば、え候(さぶら)ふまじき心地(ここち)なむし侍(はべ)る。いといかがは、文字(もじ)の数(かず)知(し)らず、春(はる)は冬(ふゆ)の歌(うた)、秋(あき)は梅(むめ)の花(はな)の歌(うた)などを詠(よ)むやうは侍(はべ)らむ。されど歌(うた)詠(よ)むと言(い)はれし末々(すゑずゑ)は、すこし人(ひと)よりまさりて、『その折(をり)の歌(うた)は、これこそありけれ、さは言(い)へど、それが子(こ)なれば』など言(い)はればこそ、甲斐(かひ)ある心地(ここち)もし侍(はべ)らめ。つゆとりわきたる方(かた)もなくて、さすがに歌(うた)がましう、我(われ)はと思(おも)へるさまに、最初(さいそ)に詠(よ)み出(い)で侍(はべ)らむ、亡(な)き人(ひと)のためにも、いとほしう侍(はべ)る」と、まめやかに啓(けい)すれば、笑(わら)はせ給(たま)ひて、「さらばただ心(こころ)に任(まか)す。我(われ)は、詠(よ)めとも言(い)はじ」と宣(のたま)はすれば、「いと心安(こころやす)くなり侍(はべ)りぬ。今(いま)は、歌(うた)のこと思(おも)ひかけじ」など言(い)ひてあるころ、庚申(かうしん)せさせ給(たま)ふとて、内(うち)の大臣殿(おほいとの)、いみじう心(こころ)まうけせさせ給(たま)へり。

 

 

(第九八段(だいきゅうじゅうはちだん))

  中納言(ちゆうなごん)参(まゐ)り給(たま)ひて、御扇(おんあふぎ)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふに、「隆家(たかいへ)こそ、いみじき骨(ほね)は得(え)て侍(はべ)れ。それを貼(は)らせて参(まゐ)らせむとするに、おぼろけの紙(かみ)は、え貼(は)るまじければ、求(もと)め侍(はべ)るなり」と申(まう)し給(たま)ふ。「いかやうにかある」と問(と)ひきこえさせ給(たま)へば、「すべていみじう侍(はべ)り。『さらに、まだ見(み)ぬ骨(ほね)のさまなり』となむ、人々(ひとびと)申(まう)す。まことにかばかりのは見(み)えざりつ」と、言(こと)高(たか)く宣(のたま)へば、「さては、扇(あふぎ)のにはあらで、海月(くらげ)のななり」と聞(き)こゆれば、「これは隆家(たかいへ)が言(こと)にしてむ」とて笑(わら)ひ給(たま)ふ。

  かやうのことこそは、かたはらいたきことのうちに入(い)れつべけれど、「一(ひと)つな落(お)としそ」と言(い)へば、いかがはせむ。

 

 

(第(だい)一〇〇(ひゃく)段(だん))

(淑景舎(しげいさ)、東宮(とうぐう)に)  御手水(おほんてうづ)参(まゐ)る。かの御方(おんかた)のは、宣耀殿(せんえうでん)、貞観殿(ぢやうぐわんでん)を通(とほ)りて、童女(どうぢよ)二人(ふたり)、下仕(しもづか)へ四人(よたり)して、持(も)て参(まゐ)るめり。唐(から)廂(ひさし)のこなたの廊(らう)にぞ、女房(にようばう)六人(むたり)ばかり候(さぶら)ふ。狹(せば)しとて、かたへは御(おん)送(おく)りして皆(みな)帰(かへ)りにけり。桜(さくら)の汗衫(かざみ)、萌黄(もえぎ)・紅梅(こうばい)などいみじう、汗衫(かざみ)長(なが)く引(ひ)きて、取(と)り次(つ)ぎ参(まゐ)らする、いとなまめき、をかし。織物(おりもの)の唐衣(からぎぬ)どもこぼれ出(い)でて、相尹(すけまさ)の馬(むま)の頭(かみ)の女(むすめ)小将(せうしやう)、北野(きたのの)宰相(さいしやう)の女(むすめ)宰相(さいしやう)の君(きみ)などぞ、近(ちか)うはある。をかしと見(み)るほどに、こなたの御手水(おほんてうづ)は、番(ばん)の釆女(うねべ)の、青裾濃(あをすそご)の裳(も)、唐衣(からぎぬ)・裙帯(くたい)・領布(ひれ)などして、面(おもて)いと白(しろ)くて、下仕(しもづか)へなど取(と)り次(つ)ぎ参(まゐ)るほど、これはた公(おほやけ)しう唐(から)めきて、をかし。

  御膳(おもの)の折(をり)になりて、御髮(みぐし)上(あ)げ参(まゐ)りて、蔵人(くらうど)ども、御(おん)まかなひの髮(かみ)上(あ)げて、参(まゐ)らするほどは、隔(へだ)てたりつる御屏風(おんびやうぶ)も押(お)し開(あ)けつれば、かいま見(み)の人(ひと)、隠(かく)れ蓑(みの)取(と)られたる心地(ここち)して、あかずわびしければ、御簾(みす)と几帳(きちやう)との中(なか)にて、柱(はしら)の外(と)よりぞ見(み)奉(たてまつ)る。衣(きぬ)の裾(すそ)・裳(も)などは、御簾(みす)の外(と)に皆(みな)押(お)し出(い)だされたれば、殿(との)、端(はし)の方(かた)より御(ご)覧(らん)じ出(い)だして、「あれは誰(た)そや、かの御簾(みす)の間(ま)より見(み)ゆるは」と、とがめさせ給(たま)ふに、「少納言(せうなごん)が、ものゆかしがりて侍(はべ)るならむ」と申(まう)させ給(たま)へば、「あな恥(は)づかし。かれは古(ふる)き得意(とくい)を。いとにくさげなる娘(むすめ)ども持(も)たりともこそ見(み)侍(はべ)れ」など宣(のたま)ふ御気色(おんけしき)、いとしたり顔(がほ)なり。

  あなたにも御膳(おもの)参(まゐ)る。「うらやましう、方々(かたがた)の皆(みな)参(まゐ)りぬめり。とく聞(き)こしめして、翁(おきな)・嫗(おんな)に御(おん)おろしをだに賜(たま)へ」など、日(ひ)一日(ひとひ)、ただ猿楽言(さるがうごと)をのみし給(たま)ふほどに、大納言殿(だいなごんどの)、三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)、松君(まつぎみ)率(ゐ)て参(まゐ)り給(たま)へり。殿(との)、いつしかと抱(いだ)き取(と)り給(たま)ひて、膝(ひざ)に据(す)ゑ奉(たてまつ)り給(たま)へる、いとうつくし。狹(せば)き縁(えん)に、所(ところ)狭(せ)き御装束(おんさうぞく)の下襲(したがさね)引(ひ)き散(ち)らされたり。大納言殿(だいなごんどの)は、ものものしう清(きよ)げに、中将殿(ちゆうじやうどの)は、いとらうらうじう、いづれもめでたきを見(み)奉(たてまつ)るに、殿(との)をばさるものにて、上(うへ)の御宿世(おんすくせ)こそ、いとめでたけれ。「御円座(おんわらふだ)」など聞(き)こえ給(たま)へど、「陣(ぢん)に着(つ)き侍(はべ)るなり」とて、急(いそ)ぎ立(た)ち給(たま)ひぬ。

 

 

(第(だい)一〇(ひゃく)五段(ごだん))

  見苦(みぐる)しきもの  衣(きぬ)の背(せ)縫(ぬ)ひ、片寄(かたよ)せて着(き)たる。また、のけ頸(くび)したる。例(れい)ならぬ人(ひと)の前(まへ)に、子(こ)負(お)ひて出(い)で来(き)たる。法師(ほふし)陰陽師(おんやうじ)の、紙(かみ)冠(かうぶり)して、祓(はら)へしたる。

  色(いろ)黒(くろ)うにくげなる女(をんな)の、鬘(かづら)したると、髭(ひげ)がちに、かじけ、やせやせなる男(をとこ)と、夏(なつ)、昼寝(ひるね)したるこそ、いと見苦(みぐる)しけれ。何(なに)の見(み)る甲斐(かひ)にて、さて臥(ふ)いたるならむ。夜(よる)などは、容貌(かたち)も見(み)えず、また、皆(みな)おしなべて、さることとなりにたれば、我(われ)はにくげなりとて、起(お)きゐるべきにもあらずかし。さて、早朝(つとめて)は疾(と)く起(お)きぬる、いと目(め)やすしかし。夏(なつ)、昼寝(ひるね)して起(お)きたるは、よき人(ひと)こそ、今(いま)少(すこ)しをかしかなれ、えせ容貌(かたち)は、つやめき、寝(ね)腫(は)れて、ようせずは頬(ほほ)ゆがみもしぬべし。かたみにうち見(み)交(か)はしたらむほどの、生(い)ける甲斐(かひ)なさよ。

  痩(や)せ、色(いろ)黒(くろ)き人(ひと)の、生絹(すずし)の単衣(ひとへ)着(き)たる、いと見苦(みぐる)しかし。

 

 

(第(だい)一一一(ひゃくじゅういち)段(だん))

  常(つね)より異(こと)に聞(き)こゆるもの  元三(ぐわんざん)の車(くるま)の音(おと)。また鶏(とり)の声(こゑ)。暁(あかつき)のしはぶき。ものの音(ね)はさらなり。

 

 

(第(だい)一一二(ひゃくじゅうに)段(だん))

  絵(ゑ)に描(か)き劣(おと)りするもの  なでしこ。菖蒲(さうぶ)。桜(さくら)。物語(ものがたり)にめでたしといひたる男(をとこ)・女(をんな)の容貌(かたち)。

 

 

(第(だい)一一三(ひゃくじゅうさん)段(だん))

  描(か)きまさりするもの  松(まつ)の木(き)。秋(あき)の野(の)。山里(やまざと)。山道(やまみち)。

 

 

(第(だい)一一六(ひゃくじゅうろく)段(だん))

(正月(むつき)に寺(てら)に籠(こも)りたるは)  二月(きさらぎ)晦日(つごもり)、三月(やよひ)朔日(ついたち)ころ、花盛(はなざか)りに籠(こも)りたるも、をかし。清(きよ)げなる若(わか)き男(をとこ)どもの、主(しゆう)と見(み)ゆる二(ふたり)、三人(みたり)、桜(さくら)の襖(あを)・柳(やなぎ)など、いとをかしうて、くくり上(あ)げたる指貫(さしぬき)の裾(すそ)も、あてやかにぞ見(み)なさるる。つきづきしき男(をのこ)に、装束(さうぞく)をかしうしたる餌袋(ゑぶくろ)抱(いだ)かせて、小舎人童(こどねりわらは)ども、紅梅(こうばい)・萌黄(もえぎ)の狩衣(かりぎぬ)、色々(いろいろ)の衣(きぬ)、押(お)し摺(す)りもどろかしたる袴(はかま)など着(き)せたり。花(はな)など折(を)らせて、侍(さぶらひ)めきて細(ほそ)やかなる者(もの)など具(ぐ)して、金鼓(こんぐ)打(う)つこそ、をかしけれ。さぞかしと見(み)ゆる人(ひと)もあれど、いかでかは知(し)らむ。うち過(す)ぎて去(い)ぬるも、さうざうしければ、「気色(けしき)を見(み)せましものを」など言(い)ふも、をかし。

  かやうにて、寺(てら)にも籠(こも)り、すべて例(れい)ならぬ所(ところ)に、ただ使(つか)ふ人(ひと)の限(かぎ)りしてあるこそ、甲斐(かひ)なうおぼゆれ。なほ同(おな)じほどにて、一(ひと)つ心(こころ)に、をかしきこともにくきことも、さまざまに言(い)ひあはせつべき人(ひと)、必(かなら)ず一人(ひとり)二人(ふたり)、あまたも誘(さそ)はまほし。そのある人(ひと)の中(なか)にも、くちをしからぬもあれど、目(め)馴(な)れたるなるべし。男(をとこ)なども、さ思(おも)ふにこそあめれ、わざと尋(たづ)ね呼(よ)び歩(あり)くは。

 

 

(第(だい)一一八(ひゃくじゅうはち)段(だん))

  わびしげに見(み)ゆるもの  六(みなづき)、七月(ふみづき)の午(むま)、未(ひつじ)の時(とき)ばかりに、汚(きたな)げなる車(くるま)にえせ牛(うし)かけて、揺(ゆ)るがし行(い)く者(もの)。雨(あめ)降(ふ)らぬ日(ひ)、張(は)り筵(むしろ)したる車(くるま)。いと寒(さむ)き折(をり)、暑(あつ)きほどなどに、下衆(げす)女(をんな)のなり悪(あ)しきが、子(こ)負(お)ひたる。老(お)いたる乞食(かたゐ)。小(ちひ)さき板屋(いたや)の黒(くろ)う汚(きたな)げなるが、雨(あめ)に濡(ぬ)れたる。また、雨(あめ)いたう降(ふ)りたるに、小(ちひ)さき馬(むま)に乗(の)りて御前(ごぜん)したる人(ひと)。冬(ふゆ)はされどよし。夏(なつ)は袍(うへのきぬ)、下襲(したがさね)も、一(ひと)つにあひたり。

 

 

(第(だい)一二〇(ひゃくにじゅう)段(だん))

  (恥(は)づかしきもの)  男(をとこ)は、うたて思(おも)ふさまならず、もどかしう心(こころ)づきなきことなどありと見(み)れど、さし向(む)かひたる人(ひと)を、すかし頼(たの)むるこそ、いと恥(は)づかしけれ。まして、情(なさ)けあり、好(この)ましう人(ひと)に知(し)られたるなどは、愚(おろ)かなりと思(おも)はすべうももてなさずかし。心(こころ)のうちにのみならず。また皆(みな)、これがことはかれに言(い)ひ、かれがことはこれに言(い)ひ聞(き)かすべかめるも、我(わ)がことをば知(し)らで、かう語(かた)るは、なほこよなきなめりと、思(おも)ひやすらむ。いで、されば、少(すこ)しも思(おも)ふ人(ひと)に会(あ)へば、心(こころ)はかなきなめりと見(み)えて、いと恥(は)づかしうもあらぬぞかし。いみじうあはれに心苦(こころぐる)しう、見捨(みす)てがたきことなどを、いささか何(なに)とも思(おも)はぬも、いかなる心(こころ)ぞとこそ、あさましけれ。さすがに人(ひと)の上(うへ)をもどき、ものをいとよく言(い)ふさまよ。ことに頼(たの)もしき人(ひと)なき宮仕(みやづか)へ人(びと)などを語(かた)らひて、ただならずなりぬるありさまを、清(きよ)く知(し)らでなどもあるは。

 

 

(第(だい)一二一(ひゃくにじゅういち)段(だん))

  無徳(むとく)なるもの  潮干(しほひ)の潟(かた)にをる大船(おほふね)。大(おほ)きなる木(き)の、風(かぜ)に吹(ふ)き倒(たふ)されて、根(ね)をささげて横(よこ)たはれ伏(ふ)せる。えせ者(もの)の従者(ずさ)勘(かうが)へたる。人(ひと)の妻(め)などの、すずろなるもの怨(ゑん)じなどして隠(かく)れたらむを、必(かなら)ず尋(たづ)ね騒(さわ)がむものぞと思(おも)ひたるに、さしもあらず、ねたげにもてなしたるに、さてもえ旅立(たびだ)ち居(ゐ)たらねば、心(こころ)と出(い)で来(き)たる。

 

 

(第(だい)一二三(ひゃくにじゅうさん)段(だん))

  はしたなきもの  異人(ことひと)を呼(よ)ぶに、我(われ)ぞとて、さし出(い)でたる。物(もの)など取(と)らする折(をり)は、いとど。おのづから人(ひと)の上(うへ)などうち言(い)ひそしりたるに、幼(をさな)き子(こ)どもの聞(き)き取(と)りて、その人(ひと)のあるに、言(い)ひ出(い)でたる。

  あはれなることなど、人(ひと)の言(い)ひ出(い)で、うち泣(な)きなどするに、げにいとあはれなりなど聞(き)きながら、涙(なみだ)のつと出(い)で来(こ)ぬ、いとはしたなし。泣(な)き顏(がほ)作(つく)り、気色(けしき)異(こと)になせど、いと甲斐(かひ)なし。めでたきことを見(み)聞(き)くには、まづただ出(い)で来(き)にぞ出(い)で来(く)る。

 

 

(第(だい)一二六(ひゃくにじゅうろく)段(だん))

  九月(ながつき)ばかり、夜(よ)一夜(ひとよ)降(ふ)り明(あ)かしつる雨(あめ)の、今朝(けさ)は止(や)みて、朝日(あさひ)いとけざやかにさし出(い)でたるに、前栽(せんざい)の露(つゆ)はこぼるばかり濡(ぬ)れかかりたるも、いとをかし。透垣(すいがい)の羅紋(らもん)、軒(のき)の上(うへ)などにかいたる蜘蛛(くも)の巣(す)のこぼれ残(のこ)りたるに、雨(あめ)のかかりたるが、白(しろ)き玉(たま)を貫(つらぬ)きたるやうなるこそ、いみじうあはれに、をかしけれ。

  少(すこ)し日(ひ)たけぬれば、萩(はぎ)などのいと重(おも)げなるに、露(つゆ)の落(お)つるに、枝(えだ)うち動(うご)きて、人(ひと)も手(て)触(ふ)れぬに、ふと上様(かみざま)へ上(あ)がりたるも、いみじうをかし、と言(い)ひたることどもの、人(ひと)の心(こころ)には、つゆをかしからじと思(おも)ふこそ、またをかしけれ。

image00003.jpg

 

(第(だい)一三一(ひゃくさんじゅういち)段(だん))

  頭(とう)の弁(べん)の、職(しき)に参(まゐ)り給(たま)ひて、物語(ものがたり)などし給(たま)ひしに、夜(よ)いとう更(ふ)けぬ。「明日(あす)、御物忌(おんものい)みなるに、籠(こも)るべければ、丑(うし)になりなばあしかりなむ」とて、参(まゐ)り給(たま)ひぬ。

  早朝(つとめて)、蔵人所(くらうどどころ)の紙屋紙(かうやがみ)引(ひ)き重(かさ)ねて、「今日(けふ)は、残(のこ)り多(おほ)かる心地(ここち)なむする。夜(よ)を通(とほ)して昔(むかし)物語(ものがたり)も聞(き)こえ明(あ)かさむとせしを、鶏(にはとり)の声(こゑ)に催(もよほ)されてなむ」と、いみじう言(こと)多(おほ)く書(か)き給(たま)へる、いとめでたし。御返(おんかへ)りに、「いと夜(よ)深(ぶか)く侍(はべ)りける鶏(とり)の声(こゑ)は、孟嘗君(まうさうくん)のにや」と聞(き)こえたれば、立(た)ち返(かへ)り、「孟嘗君(まうさうくん)の鶏(にはとり)は、函谷関(かんこくくわん)を開(ひら)きて、三千(さんぜん)の客(かく)わづかに去(さ)れり、とあれども、これは、逢坂(あふさか)の関(せき)なり」とあれば、


「夜(よ)をこめて鶏(とり)の虚音(そらね)ははかるともよに逢坂(あふさか)の関(せき)は許(ゆる)さじ

心(こころ)かしこき関守(せきもり)侍(はべ)り」と、聞(き)こゆ。また立(た)ち返(かへ)り、


「逢坂(あふさか)は人(ひと)越(こ)え易(やす)き関(せき)なれば鶏(とり)鳴(な)かぬにも開(あ)けて待(ま)つとか」

とありし文(ふみ)どもを、初(はじ)めのは、僧都(そうづ)の君(きみ)、いみじう額(ぬか)をさへつきて取(と)り給(たま)ひてき。後々(のちのち)のは、御前(おまへ)に。

 

 

(第(だい)一三四(ひゃくさんじゅうよん)段(だん))

  つれづれなるもの  所(ところ)去(さ)りたる物忌(ものい)み。馬(むま)下(お)りぬ双六(すぐろく)。除目(ぢもく)に司(つかさ)得(え)ぬ人(ひと)の家(いへ)。雨(あめ)うち降(ふ)りたるは、まいていみじうつれづれなり。

 

 

(第(だい)一三五(ひゃくさんじゅうご)段(だん))

  つれづれ慰(なぐさ)むもの  碁(ご)。双六(すぐろく)。物語(ものがたり)。三(み)つ、四(よ)つの児(ちご)のものをかしう言(い)ふ。また、いと小(ちひ)さき児(ちご)の物語(ものがたり)し、違(たが)へなどいふわざしたる。果物(くだもの)。男(をとこ)などの、うちさるがひ、ものよく言(い)ふが来(き)たるを、物忌(ものい)みなれど、入(い)れつかし。

 

 

(第(だい)一三八(ひゃくさんじゅうはち)段(だん))

(殿(との)などのおはしまさで後(のち))  例(れい)ならず、仰(おほ)せ言(ごと)などもなくて日(ひ)ごろになれば、心細(こころぼそ)くてうちながむるほどに、長女(をさめ)、文(ふみ)を持(も)て来(き)たり。「御前(おまへ)より、宰相(さいしやう)の君(きみ)して、忍(しの)びて賜(たま)はせたりつる」と言(い)ひて、ここにてさへ、ひき忍(しの)ぶるも、あまりなり。人伝(ひとづ)ての仰(おほ)せ書(が)きにはあらぬなめり、と、胸(むね)つぶれて、疾(と)く開(あ)けたれば、紙(かみ)には、ものも書(か)かせ給(たま)はず、山吹(やまぶき)の花(はな)びらただ一重(ひとへ)を包(つつ)ませ給(たま)へり。それに、「言(い)はで思(おも)ふぞ」と書(か)かせ給(たま)へる、いみじう、日(ひ)ごろの絶(た)え間(ま)嘆(なげ)かれつる、皆(みな)慰(なぐさ)めてうれしきに、長女(をさめ)も、うちまもりて、「御前(おまへ)には、いかが、ものの折(をり)ごとにおぼし出(い)できこえさせ給(たま)ふなるものを、誰(たれ)も、あやしき御長居(おんながゐ)とこそ、侍(はべ)るめれ。などかは参(まゐ)らせ給(たま)はぬ」と言(い)ひて、「ここなる所(ところ)に、あからさまにまかりて参(まゐ)らむ」と言(い)ひて去(い)ぬる後(のち)、御返事(おんかへりこと)書(か)きて参(まゐ)らせむとするに、この歌(うた)の本(もと)、さらに忘(わす)れたり。「いとあやし。同(おな)じ古事(ふること)といひながら、知(し)らぬ人(ひと)やはある。ただここもとにおぼえながら、言(い)ひ出(い)でられぬは、いかにぞや」など言(い)ふを聞(き)きて、小(ちひ)さき童(わらは)の前(まへ)に居(ゐ)たるが、「下(した)行(ゆ)く水(みづ)、とこそ申(まう)せ」と言(い)ひたる。など、かく忘(わす)れつるならむ、これに教(をし)へらるるも、をかし。

  御返(おんかへ)り参(まゐ)らせて、少(すこ)しほど経(へ)て参(まゐ)りたる、いかがと、例(れい)よりはつつましくて、御几帳(みきちやう)にはた隠(かく)れて候(さぶら)ふを、「あれは今(いま)参(まゐ)りか」など、笑(わら)はせ給(たま)ひて、「にくき歌(うた)なれど、この折(をり)は、さも言(い)ひつべかりけりとなむ思(おも)ふを、大方(おほかた)見(み)つけでは、しばしもえこそ慰(なぐさ)むまじけれ」など、宣(のたま)はせて、変(か)はりたる御気色(みけしき)もなし。

 

 

(第(だい)一四二(ひゃくよんじゅうに)段(だん))

  恐(おそ)ろしげなるもの  橡(つるばみ)のかさ。焼(や)けたるところ。水(みづ)蕗(ふふき)。菱(ひし)。髪(かみ)多(おほ)かる男(をとこ)の、洗(あら)ひて干(ほ)すほど。

 

 

(第(だい)一四四(ひゃくよんじゅうよん)段(だん))

  いやしげなるもの  式部(しきぶ)の丞(じよう)の笏(しやく)。黒(くろ)き髪(かみ)の筋(すぢ)わろき。布(ぬの)屏風(びやうぶ)の新(あたら)しき。古(ふ)り黒(くろ)みたるは、さる言(い)ふかひなき物(もの)にて、なかなか何(なに)とも見(み)えず。新(あたら)しう仕立(した)てて、桜(さくら)の花(はな)多(おほ)く咲(さ)かせて、胡粉(ごふん)、朱砂(すさ)など彩(いろど)りたる絵(ゑ)ども描(か)きたる。遣戸(やりど)厨子(づし)。法師(ほふし)の太(ふと)りたる。まことの出雲(いづも)筵(むしろ)の畳(たたみ)。

 

 

(第(だい)一四五(ひゃくよんじゅうご)段(だん))

  胸(むね)つぶるるもの  競馬(くらべむま)見(み)る。元結(もとゆひ)縒(よ)る。親(おや)などの、心地(ここち)あしとて、例(れい)ならぬ気色(けしき)なる。まして、世(よ)の中(なか)など騒(さわ)がしと聞(き)こゆるころは、よろずのことおぼえず。また、もの言(い)はぬ児(ちご)の泣(な)き入(い)りて、乳(ち)も飮(の)まず、乳母(めのと)の抱(いだ)くにも止(や)まで、久(ひさ)しき。

  例(れい)の所(ところ)ならぬ所(ところ)にて、ことにまたいちじるからぬ人(ひと)の声(こゑ)聞(き)きつけたるは道理(ことわり)、異人(ことひと)などの、その上(うへ)など言(い)ふにも、まづこそつぶるれ。いみじう憎(にく)き人(ひと)の来(き)たるにも、またつぶる。あやしくつぶれがちなるものは、胸(むね)こそあれ。昨夜(よべ)来(き)始(はじ)めたる人(ひと)の、今朝(けさ)の文(ふみ)の遅(おそ)きは、人(ひと)のためにさへ、つぶる。

 

 

(第(だい)一四六(ひゃくよんじゅうろく)段(だん))

  うつくしきもの  瓜(うり)に描(か)きたる児(ちご)の顏(かほ)。雀(すずめ)の子(こ)の、鼠鳴(ねずな)きするに、踊(をど)り来(く)る。二(ふた)つ三(み)つばかりなる児(ちご)の、急(いそ)ぎて這(は)ひ来(く)る道(みち)に、いと小(ちひ)さき塵(ちり)のありけるを目(め)ざとに見(み)つけて、いとをかしげなる指(および)にとらへて、大人(おとな)などに見(み)せたる、いとうつくし。

image00004.jpg

  頭(かしら)は尼(あま)そぎなる児(ちご)の、目(め)に髮(かみ)の覆(おほ)へるを、かきはやらで、うち傾(かたぶ)きて、物(もの)など見(み)たるも、うつくし。大(おほ)きにはあらぬ殿上(てんじやう)童(わらは)の、装束(さうぞ)きたてられて歩(あり)くも、うつくし。をかしげなる児(ちご)の、あからさまに抱(いだ)きて遊(あそ)ばしうつくしむほどに、かいつきて寝(ね)たる、いとらうたし。

 

  雛(ひひな)の調度(でうど)。蓮(はちす)の浮(う)き葉(は)のいと小(ちひ)さきを、池(いけ)より取(と)り上(あ)げたる。葵(あふひ)のいと小(ちひ)さき。なにもなにも小(ちひ)さきものは、皆(みな)うつくし。

  いみじう白(しろ)く肥(こ)えたる児(ちご)の二(ふた)つばかりなるが、二藍(ふたあゐ)の薄物(うすもの)など、衣長(きぬなが)にて、襷(たすき)結(ゆ)ひたるが、這(は)ひ出(い)でたるも、また、短(みじか)きが袖(そで)がちなる着(き)て歩(あり)くも、皆(みな)うつくし。八(や)つ、九(ここの)つ、十(とを)ばかりなどの男子(をのこご)の、声(こゑ)幼(をさな)げにて書(ふみ)読(よ)みたる、いとうつくし。

  鶏(にはとり)の雛(ひな)の、足高(あしだか)に、白(しろ)うをかしげに、衣(きぬ)短(みじか)なるさまして、ひよひよとかしかましう鳴(な)きて、人(ひと)の後(しり)・前(さき)に立(た)ちて歩(あり)くも、をかし。また、親(おや)の、ともに連(つ)れて立(た)ちて走(はし)るも、皆(みな)うつくし。雁(かり)の子(こ)。瑠璃(るり)の壺(つぼ)。

 

 

(第(だい)一四七(ひゃくよんじゅうなな)段(だん))

  人(ひと)ばへするもの  異(こと)なることなき人(ひと)の子(こ)の、さすがにかなしうし慣(な)らはしたる。しはぶき。恥(は)づかしき人(ひと)にもの言(い)はむとするにもまづ先(さき)に立(た)つ。

  あなたこなたに住(す)む人(ひと)の子(こ)の、四(よ)つ五(い)つなるは、あやにくだちて物(もの)取(と)り散(ち)らし、損(そこな)ふを、引(ひ)きはられ制(せい)せられて、心(こころ)のままにもえあらぬが、親(おや)の来(き)たるに所得(ところえ)て、「あれ見(み)せよ。や、や、母(はは)」など引(ひ)き揺(ゆ)るがすに、大人(おとな)ともの言(い)ふとて、ふとも聞(き)き入(い)れねば、手(て)づから引(ひ)き探(さが)し出(い)でて、見(み)騒(さわ)ぐこそ、いと憎(にく)けれ。それを、「まな」とも取(と)り隠(かく)さで、「さなせそ、損(そこな)ふな」などばかり、うち笑(ゑ)みて言(い)ふこそ、親(おや)も憎(にく)けれ。我(われ)はた、えはしたなうも言(い)はで見(み)るこそ、心(こころ)もとなけれ。

 

(第(だい)一五〇(ひゃくごじゅう)段(だん))

  むつかしげなるもの  繍(ぬひもの)の裏(うら)。鼠(ねずみ)の子(こ)の毛(け)もまだ生(お)ひぬを、巣(す)の中(なか)より転(まろ)ばし出(い)でたる。裏(うら)まだ付(つ)けぬ裘(かはぎぬ)の縫(ぬ)ひ目(め)。猫(ねこ)の耳(みみ)の中(なか)。ことに清(きよ)げならぬ所(ところ)の、暗(くら)き。

  異(こと)なることなき人(ひと)の、子(こ)などあまた持(も)て扱(あつか)ひたる。いと深(ふか)うしも心(こころ)ざしなき妻(め)の、心地(ここち)あしうして久(ひさ)しうなやみたるも、夫(をとこ)の心地(ここち)はむつかしかるべし。

 

 

(第(だい)一六一(ひゃくろくじゅういち)段(だん))

  近(ちか)うて遠(とほ)きもの  宮(みや)のべの祭(まつ)り。思(おも)はぬ同胞(はらから)、親族(しぞく)の仲(なか)。鞍馬(くらま)の九十九折(つづらをり)といふ道(みち)。師走(しはす)の晦日(つごもり)の日(ひ)、正月(むつき)の朔日(ついたち)の日(ひ)のほど。

 

 

(第(だい)一六二(ひゃくろくじゅうに)段(だん))

  遠(とほ)くて近(ちか)きもの  極楽(ごくらく)。舟(ふね)の道(みち)。人(ひと)の仲(なか)。

 

 

(第(だい)一七三(ひゃくななじゅうさん)段(だん))

  女(をんな)の一人(ひとり)住(す)む所(ところ)は、いたくあばれて、築土(ついひぢ)なども全(また)からず、池(いけ)などある所(ところ)も、水草(みくさ)ゐ、庭(には)なども、蓬(よもぎ)に茂(しげ)りなどこそせねども、所々(ところどころ)、砂(すなご)の中(なか)より、青(あを)き草(くさ)うち見(み)え、寂(さび)しげなるこそ、あはれなれ。ものかしこげに、なだらかに修理(すり)して、門(かど)いたく固(かた)め、際々(きはぎは)しきは、いとうたてこそおぼゆれ。

 

 

(第(だい)一七四(ひゃくななじゅうよん)段(だん))

  宮仕(みやづか)へ人(びと)の里(さと)なども、親(おや)ども二人(ふたり)あるは、いとよし。人(ひと)繁(しげ)く出(い)で入(い)り、奧(おく)の方(かた)にあまた声々(こゑごゑ)さまざま聞(き)こえ、馬(むま)の音(おと)などしていと騒(さわ)がしきまであれど、とがもなし。されど、忍(しの)びても顕(あらは)れても、おのづから、「出(い)で給(たま)ひにけるを、え知(し)らで」とも、また「いつか参(まゐ)り給(たま)ふ」など言(い)ひに、さしのぞき来(く)るもあり。心(こころ)かけたる人(ひと)はた、いかがは。門(かど)開(あ)けなどするを、うたて騒(さわ)がしうおほやうげに、夜中(よなか)までなど思(おも)ひたる気色(けしき)、いと憎(にく)し。「大御門(おほみかど)は、鎖(さ)しつや」など問(と)ふなれば、「今(いま)。まだ人(ひと)のおはすれば」など言(い)ふ者(もの)の、なまふせがしげに思(おも)ひて答(いら)ふるにも、「人(ひと)出(い)で給(たま)ひなば疾(と)く鎖(さ)せ。このころ、盗人(ぬすびと)いと多(おほ)かなり。火(ひ)危(あや)うし」など言(い)ひたるが、いとむつかしう、うち聞(き)く人(ひと)だにあり、この人(ひと)の供(とも)なる者(もの)どもは、わびぬにやあらむ、このかく今(いま)や出(い)づると、絶(た)えずさしのぞきて、気色(けしき)見(み)る者(もの)どもを、笑(わら)ふべかめり。真似(まね)うちするを聞(き)かば、ましていかに厳(きび)しく言(い)ひとがめむ。いと色(いろ)に出(い)でて言(い)はぬも、思(おも)ふ心(こころ)なき人(ひと)は、必(かなら)ず来(き)などやはする。されど、すくよかなるは、「夜(よ)更(ふ)けぬ。御門(みかど)危(あや)ふかなり」など笑(わら)ひて、出(い)でぬるもあり。まことに心(こころ)ざし殊(こと)なる人(ひと)は、「早(はや)」など、あまたたび遣(や)らはるれど、なほ居(ゐ)明(あ)かせば、たびたび見(み)歩(あり)くに、明(あ)けぬべき気色(けしき)を、いと珍(めづら)かに思(おも)ひて、「いみじう、御門(みかど)を今宵(こよひ)らいさうと開(あ)け広(ひろ)げて」と聞(き)こえごちて、あぢきなく、曉(あかつき)にぞ、鎖(さ)すなるは、いかがは憎(にく)きを。親(おや)添(そ)ひぬるはなほさぞある。まいて、まことのならぬは、いかに思(おも)ふらむとさへ、つつまし。兄(せうと)の家(いへ)なども、けにくきは、さぞあらむ。

 

 

(第(だい)一七九(ひゃくななじゅうきゅう)段(だん))

  宮(みや)に始(はじ)めて参(まゐ)りたるころ、ものの恥(は)づかしきことの数知(かずし)らず、涙(なみだ)も落(お)ちぬべければ、夜々(よるよる)参(まゐ)りて、三尺(さんじやく)の御几帳(みきちやう)の後(うしろ)に候(さぶら)ふに、絵(ゑ)など取(と)り出(い)でて見(み)せさせ給(たま)ふを、手(て)にてもえさし出(い)づまじう、わりなし。「これは、とあり、かかり。それか、かれか」など、宣(のたま)はす。高杯(たかつき)に参(まゐ)らせたる御殿油(おほとなぶら)なれば、髮(かみ)の筋(すぢ)なども、なかなか昼(ひる)よりは顕証(けそう)に見(み)えて、まばゆけれど、念(ねん)じて、見(み)などす。いと冷(つめ)たきころなれば、さし出(い)でさせ給(たま)へる御手(おんて)のはつかに見(み)ゆるが、いみじう匂(にほ)ひたる薄紅梅(うすこうばい)なるは、限(かぎ)りなくめでたしと、見知(みし)らぬ里人(さとびと)心地(ごこち)には、かかる人(ひと)こそは世(よ)におはしましけれと、驚(おどろ)かるるまでぞ、目守(まも)り参(まゐ)らする。

  曉(あかつき)には疾(と)く下(お)りなむと急(いそ)がるる。「葛城(かづらき)の神(かみ)も、しばし」など、仰(おほ)せらるるを、いかでかは筋(すぢ)かひ御覧(ごらん)ぜられむとて、なほ臥(ふ)したれば、御格子(みかうし)も参(まゐ)らず。女官(にようくわん)ども参(まゐ)りて、「これ放(はな)たせ給(たま)へ」など言(い)ふを聞(き)きて、女房(にようばう)の放(はな)つを、「まな」など仰(おほ)せらるれば、笑(わら)ひて帰(かへ)りぬ。ものなど問(と)はせ給(たま)ひ、宣(のたま)はするに、久(ひさ)しうなりぬれば、「下(お)りまほしうなりにたらむ。さらば、早(はや)。夜(よ)さりは疾(と)く」と仰(おほ)せらる。ゐざり隠(かく)るるや遅(おそ)きと上(あ)げ散(ち)らしたるに、雪(ゆき)降(ふ)りにけり。登花殿(とうくわでん)の御前(おまへ)は立蔀(たてじとみ)近(ちか)くて狭(せば)し。雪(ゆき)いとをかし。

 

 

(第(だい)一八三(ひゃくはちじゅうさん)段(だん))

  病(やまひ)は、胸(むね)。物(もの)の怪(け)。脚(あし)の気(け)。さては、ただそこはかとなくて、もの食(く)はれぬ心地(ここち)。

  十八(とをあまりやつ)、九(ここのつ)ばかりの人(ひと)の、髪(かみ)いとうるはしくて、丈(たけ)ばかりに、裾(すそ)いとふさやかなる、いとよう肥(こ)えて、いみじう色(いろ)白(しろ)う、顔(かほ)愛敬(あいぎやう)づき、よしと見(み)ゆるが、歯(は)をいみじう病(や)みて、額(ひたひ)髪(がみ)もしとどに泣(な)き濡(ぬ)らし、乱(みだ)れかかるも知(し)らず、面(おもて)もいと赤(あか)くて、おさへて居(ゐ)たるこそ、いとをかしけれ。

 

 

(第(だい)一八八(ひゃくはちじゅうはち)段(だん))

  ふと心劣(こころおと)りとかするものは、男(をとこ)も女(をんな)も、言葉(ことば)の文字(もじ)卑(いや)しう遣(つか)ひたるこそ、よろづのことよりまさりて、わろけれ。ただ文字(もじ)一(ひと)つに、あやしう、貴(あて)にも卑(いや)しうもなるは、いかなるにかあらむ。

  さるは、かう思(おも)ふ人(ひと)、殊(こと)に優(すぐ)れてもあらじかし。いづれをよしあしと知(し)るにかは。されど、人(ひと)をば知(し)らじ、ただ、心地(ここち)にさおぼゆるなり。

  卑(いや)しきことも、わろきことも、さと知(し)りながらことさらに言(い)ひたるは、あしうもあらず。我(わ)がもてつけたるを、慎(つつ)みなく言(い)ひたるは、あさましきわざなり。

  また、さもあるまじき老(お)いたる人(ひと)・男(をとこ)などの、わざと繕(つくろ)ひ、鄙(ひな)びたるは、憎(にく)し。まさなきことも、あやしきことも、大人(おとな)なるはまのもなく言(い)ひたるを、若(わか)き人(ひと)は、いみじうかたはらいたきことに消(き)え入(い)りたるこそ、さるべきことなれ。

 

 

(第(だい)一九〇(ひゃくきゅうじゅう)段(だん))

  風(かぜ)は  嵐(あらし)。三月(やよひ)ばかりの夕暮(ゆふぐ)れにゆるく吹(ふ)きたる雨風(あまかぜ)。

  八(はづき)、九月(ながつき)ばかりに、雨(あめ)にまじりて吹(ふ)きたる風(かぜ)、いとあはれなり。雨(あめ)の脚(あし)横(よこ)さまに、騒(さわ)がしう吹(ふ)きたるに、夏(なつ)通(とほ)したる綿(わた)衣(ぎぬ)のかかりたるを、生絹(すずし)の単衣(ひとへぎぬ)重(かさ)ねて着(き)たるも、いとをかし。この生絹(すずし)だに、いと所(ところ)狭(せ)く暑(あつ)かはしく、取(と)り捨(す)てまほしかりしに、いつのほどにかくなりぬるにかと思(おも)ふも、をかし。

  暁(あかつき)に、格子(かうし)・妻戸(つまど)を押(お)し開(あ)けたれば、嵐(あらし)のさと顔(かほ)にしみたるこそ、いみじくをかしけれ。

  九月(ながつき)つごもり・十月(かんなづき)のころ、空(そら)うち曇(くも)りて、風(かぜ)のいと騒(さわ)がしく吹(ふ)きて、黄(き)なる葉(は)どものほろほろとこぼれ落(お)つる、いとあはれなり。桜(さくら)の葉(は)・椋(むく)の葉(は)こそ、いと疾(と)くは落(お)つれ。

  十月(かんなづき)ばかりに、木立(こだち)多(おほ)かる所(ところ)の庭(には)は、いとめでたし。

 

 

(第(だい)一九一(ひゃくきゅうじゅういち)段(だん))

  野分(のわき)のまたの日(ひ)こそ、いみじうあはれにをかしけれ。立蔀(たてじとみ)、透垣(すいがい)などの乱(みだ)れたるに、前栽(せんざい)ども、いと心苦(こころぐる)しげなり。大(おほ)きなる木(き)どもも倒(たふ)れ、枝(えだ)など吹(ふ)き折(を)られたるが、萩(はぎ)・女郎花(をみなへし)などの上(うへ)に横(よこ)ろ這(ば)ひ伏(ふ)せる、いと思(おも)はずなり。格子(かうし)の壺(つぼ)などに、木(こ)の葉(は)を、ことさらにしたらむやうに、細々(こまごま)と吹(ふ)き入(い)れたるこそ、荒(あら)かりつる風(かぜ)の仕業(しわざ)とはおぼえね。

  いと濃(こ)き衣(きぬ)の上曇(うはぐも)りたるに、黄(き)朽葉(くちば)の織物(おりもの)、薄物(うすもの)などの小袿(こうちぎ)着(き)て、まことしう清(きよ)げなる人(ひと)の、夜(よる)は風(かぜ)の騒(さわ)ぎに、寝(ね)られざりければ久(ひさ)しう寝起(ねお)きたるままに、母屋(もや)より少(すこ)しゐざり出(い)でたる、髪(かみ)は風(かぜ)に吹(ふ)きまよはされて、少(すこ)しうちふくだみたるが、肩(かた)にかかれるほど、まことにめでたし。

  ものあはれなる気色(けしき)に見(み)出(い)だして、「むべ山風(やまかぜ)を」など言(い)ひたるも、心(こころ)あらむと見(み)ゆるに、十七(とをあまりななつ)、八(やつ)ばかりにやあらむ、小(ちひ)さうはあらねど、わざと大人(おとな)とは見(み)えぬが、生絹(すずし)の単衣(ひとへ)のいみじうほころび絶(た)え、花(はな)もかへりぬれなどしたる、薄色(うすいろ)の宿直物(とのゐもの)を着(き)て、髪色(かみいろ)に、細々(こまごま)とうるはしう、末(すゑ)も尾花(をばな)のやうにて、丈(たけ)ばかりなりければ、衣(きぬ)の裾(すそ)にはづれて、袴(はかま)のそばそばより見(み)ゆるに、童女(わらはべ)、若(わか)き人々(ひとびと)の、根(ね)ごめに吹(ふ)き折(を)られたる、ここかしこに取(と)り集(あつ)め、起(お)こし立(た)てなどするを、うらやましげに押(お)し張(は)りて、簾(す)に添(そ)ひたる後手(うしろで)も、をかし。

 

 

(第(だい)二〇九(にひゃくきゅう)段(だん))

  五月(さつき)ばかりなどに山里(やまざと)に歩(あり)く、いとをかし。草葉(くさは)も水(みづ)もいと青(あを)く見(み)え渡(わた)りたるに、上(うへ)はつれなくて、草(くさ)生(お)ひ茂(しげ)りたるを、長々(ながなが)と縦(たた)さまに行(い)けば、下(した)はえならざりける水(みづ)の、深(ふか)くはあらねど、人(ひと)などの歩(あゆ)むにはしり上(あ)がりたる、いとをかし。

  左右(ひだりみぎ)にある、垣(かき)にあるものの枝(えだ)などの、車(くるま)の屋形(やかた)などに差(さ)し入(い)るを、急(いそ)ぎてとらへて折(を)らむとするほどに、ふと過(す)ぎて外(はづ)れたるこそ、いとくちをしけれ。

  蓬(よもぎ)の、車(くるま)に押(お)しひしがれたりけるが、輪(わ)の回(まは)りたるに、近(ちか)ううちかかへたるも、をかし。

 

 

(第(だい)二一四(にひゃくじゅうよん)段(だん))

  九月(ながつき)二十日(はつか)余(あま)りのほど、初瀬(はせ)に詣(まう)でて、いとはかなき家(いへ)に泊(と)まりたりしに、いと苦(くる)しくて、ただ寝(ね)に寝入(ねい)りぬ。

  夜(よ)更(ふ)けて、月(つき)の窓(まど)より漏(も)りたりしに、人(ひと)の臥(ふ)したりしどもが衣(きぬ)の上(うへ)に、白(しろ)うて映(うつ)りなどしたりしこそ、いみじうあはれとおぼえしか。さやうなる折(をり)ぞ、人(ひと)、歌(うた)詠(よ)むかし。

 

 

(第(だい)二一八(にひゃくじゅうはち)段(だん))

  月(つき)のいと明(あ)かきに、川(かは)を渡(わた)れば、牛(うし)の歩(あゆ)むままに、水晶(すいさう)などの割(わ)れたるやうに、水(みづ)の散(ち)りたるこそをかしけれ。

 

 

(第(だい)二一九(にひゃくじゅうきゅう)段(だん))

  大(おほ)きにてよきもの  家(いへ)。餌袋(ゑぶくろ)。法師(ほふし)。果物(くだもの)。牛(うし)。松(まつ)の木(き)。硯(すずり)の墨(すみ)。男(をのこ)の目(め)の細(ほそ)きは女(をんな)びたり。また、金椀(かなまり)のやうならむも恐(おそ)ろし。火桶(ひをけ)。酸漿(ほほづき)。山吹(やまぶき)の花(はな)。桜(さくら)の花(はな)びら。

 

 

(第(だい)二二〇(にひゃくにじゅう)段(だん))

  短(みじか)くてありぬべきもの  とみのもの縫(ぬ)ふ糸(いと)。下衆(げす)女(をんな)の髪(かみ)。人(ひと)の女(むすめ)の声(こゑ)。灯台(とうだい)。

 

 

(第(だい)二四五(にひゃくよんじゅうご)段(だん))

  ただ過(す)ぎに過(す)ぐるもの  帆(ほ)かけたる舟(ふね)。人(ひと)の齢(よはひ)。春(はる)、夏(なつ)、秋(あき)、冬(ふゆ)。

 

 

(第(だい)二四六(にひゃくよんじゅうろく)段(だん))

  殊(こと)に人(ひと)に知(し)られぬもの  凶会日(くゑにち)。人(ひと)の女親(めおや)の老(お)いにたる。

 

 

(第(だい)二五二(にひゃくごじゅうに)段(だん))

  世(よ)の中(なか)に、なほいと心憂(こころう)きものは、人(ひと)に憎(にく)まれむことこそあるべけれ。誰(たれ)てふもの狂(ぐる)ひか、我(われ)、人(ひと)にさ思(おも)はれむ、とは思(おも)はむ。されど、自然(しぜん)に、宮仕(みやづか)へ所(どころ)にも、親(おや)・同胞(はらから)の中(なか)にても、思(おも)はるる、思(おも)はれぬがあるぞ、いとわびしきや。

  よき人(ひと)の御(おほん)ことは、さらなり、下衆(げす)などのほどにも、親(おや)などのかなしうする子(こ)は、目立(めた)て、耳(みみ)立(た)てられて、いたはしうこそおぼゆれ。見(み)るかひあるは、道理(ことわり)、いかが思(おも)はざらむ、とおぼゆ。異(こと)なることなきは、また、これをかなしと思(おも)ふらむは、親(おや)なればぞかしと、あはれなり。

  親(おや)にも、君(きみ)にも、すべてうち語(かた)らふ人(ひと)にも、人(ひと)に思(おも)はれむばかり、めでたきことはあらじ。

 

 

(第(だい)二五五(にひゃくごじゅうご)段(だん))

  人(ひと)の上(うへ)言(い)ふを腹立(はらだ)つ人(ひと)こそ、いとわりなけれ。いかでか言(い)はではあらむ。我(わ)が身(み)をば差(さ)し置(お)きて、さばかりもどかしく言(い)はまほしきものやはある。されど、けしからぬやうにもあり、また、おのづから聞(き)きつけて、恨(うら)みもぞする、あいなし。また、思(おも)ひ放(はな)つまじきあたりは、いとほしなど思(おも)ひ解(と)けば、念(ねん)じて言(い)はぬをや。さだになくは、うち出(い)で、笑(わら)ひもしつべし。

 

 

(第(だい)二六一(にひゃくろくじゅういち)段(だん))

  (うれしきもの)  恥(は)づかしき人(ひと)の、歌(うた)の本末(もとすゑ)問(と)ひたるに、ふとおぼえたる、我(われ)ながらうれし。常(つね)におぼえたることも、また人(ひと)の問(と)ふに、清(きよ)う忘(わす)れてやみぬる折(をり)ぞ、多(おほ)かる。

  とみにて求(もと)むる物(もの)、見出(みい)でたる。

  物(もの)合(あはせ)、何(なに)くれと挑(いど)むことに勝(か)ちたる、いかでかはうれしからざらむ。また、我(われ)はなど思(おも)ひてしたり顔(がほ)なる人(ひと)、はかり得(え)たる。女(をんな)どちよりも、男(をとこ)は、まさりてうれし。これが答(たふ)は必(かなら)ずせむと思(おも)ふらむと、常(つね)に心(こころ)遣(づか)ひせらるるも、をかしきに、いとつれなく、何(なに)とも思(おも)ひたらぬさまにて、たゆめ過(す)ぐすも、またをかし。

  憎(にく)き者(もの)の、あしき目(め)見(み)るも、罪(つみ)や得(う)らむと思(おも)ひながら、またうれし。

  ものの折(をり)に、衣(きぬ)打(う)たせにやりて、いかならむと思(おも)ふに、清(きよ)らにて得(え)たる。刺櫛(さしぐし)磨(す)らせたるに、をかしげなるも、またうれし。またも多(おほ)かるものを。

  日(ひ)ごろ月(つき)ごろ、しるきことありて悩(なや)みわたるが、怠(おこた)りぬるも、うれし。思(おも)ふ人(ひと)の上(うへ)は、我(わ)が身(み)よりもまさりて、うれし。

  御前(おまへ)に、人々(ひとびと)、所(ところ)もなく居(ゐ)たるに、今(いま)のぼりたるは、少(すこ)し遠(とほ)き柱(はしら)もとなどに居(ゐ)たるを、とく御覧(ごらん)じつけて、「こち」と、仰(おほ)せらるれば、道(みち)あけて、いと近(ちか)う召(め)し入(い)れられたるこそ、うれしけれ。

 

 

(第(だい)二八四(にひゃくはちじゅうよん)段(だん))

  雪(ゆき)のいと高(たか)う降(ふ)りたるを、例(れい)ならず御格子(みかうし)参(まゐ)りて、炭櫃(すびつ)に火(ひ)おこして、物語(ものがたり)などして集(あつま)り候(さぶら)ふに、「少納言(せうなごん)よ、香(かう)爐(ろ)峯(ほう)の雪(ゆき)、いかならむ」と、仰(おほ)せらるれば、御格子(みかうし)上(あ)げさせて、御簾(みす)を高(たか)く上(あ)げたれば、笑(わら)はせ給(たま)ふ。

  人々(ひとびと)も、「さることは知(し)り、歌(うた)などにさへ歌(うた)へど、思(おも)ひこそよらざりつれ。なほ、この宮(みや)の人(ひと)には、さべきなめり」と言(い)ふ。

 

 

(あとがき)

  この草子(さうし)、目(め)に見(み)え心(こころ)に思(おも)ふことを、人(ひと)やは見(み)むとすると思(おも)ひて、つれづれなる里(さと)居(ゐ)のほどに書(か)き集(あつ)めたるを、あいなう、人(ひと)のために便(びん)なき言(い)ひ過(す)ぐしもしつべき所々(ところどころ)もあれば、よう隠(かく)し置(お)きたりと思(おも)ひしを、心(こころ)より外(ほか)にこそ漏(も)り出(い)でにけれ。

  宮(みや)の御前(おまへ)に、内(うち)の大臣(おとど)の奉(たてまつ)り給(たま)へりけるを、「これに何(なに)を書(か)かまし。上(うへ)の御前(おまへ)には、『史記(しき)』といふ書(ふみ)をなむ書(か)かせ給(たま)へる」など、宣(のたま)はせしを、「枕(まくら)にこそは侍(はべ)らめ」と申(まう)ししかば、「さは、得(え)てよ。」とて賜(たま)はせたりしを、あやしきを、こよや何(なに)やと、尽(つ)きせず多(おほ)かる紙(かみ)を書(か)き尽(つ)くさむとせしに、いとものおぼえぬことぞ多(おほ)かるや。

  大方(おほかた)、これは、世(よ)の中(なか)にをかしきこと、人(ひと)のめでたしなど思(おも)ふべきなほ選(え)り出(い)でて、歌(うた)などをも、木(き)・草(くさ)・鳥(とり)・虫(むし)をも、言(い)ひ出(い)だしたらばこそ、思(おも)ふほどよりはわろし、心(こころ)見(み)えなりと、そしられめ、ただ心(こころ)一(ひと)つにおのづから思(おも)ふことを、戯(たはぶ)れに書(か)き付(つ)けたれば、物(もの)に立(た)ちまじり、人(ひと)なみなみなるべき耳(みみ)をも聞(き)くべきものかはと、思(おも)ひしに、「恥(は)づかしき」なんどもぞ、見(み)る人(ひと)はし給(たま)ふなれば、いとあやしうぞあるや。げに、そも道理(ことわり)、人(ひと)の憎(にく)むをよしと言(い)ひ、ほむるをもあしと言(い)ふ人(ひと)は、心(こころ)のほどこそ、推(お)し量(はか)らるれ。ただ人(ひと)に見(み)えけむぞ、ねたき。

  左(さ)中将(ちゆうじやう)、まだ伊勢(いせ)の守(かみ)と聞(き)こえし時(とき)、里(さと)におはしたりしに、端(はし)の方(かた)なりし畳(たたみ)を差(さ)し出(い)でし物(もの)は、この草子(さうし)、載(の)りて出(い)でにけり。まどひ取(と)り入(い)れしかど、やがて持(も)ておはして、いと久(ひさ)しくありてぞ、返(かへ)りたりし。それより歩(あり)き初(そ)めたるなめりとぞ、本(ほん)に。

デイジー図書(としょ)奥付(おくづけ)

2023年(ねん)

発行(はっこう) 特定(とくてい)非営利(ひえいり)活動(かつどう)法人(ほうじん)

サイエンス・アクセシビリティ・ネット

 

表紙絵(ひょうしえ)・挿絵(さしえ) 市原(いちはら)勝義(かつよし)

 

参考(さんこう)図書(としょ) 『枕草子(まくらのそうし)』角川(かどかわ)ソフィア文庫(ぶんこ)

『枕草子(まくらのそうし)』岩波(いわなみ)文庫(ぶんこ)

 

image00005.jpg

この図書(としょ)は日本(にっぽん)財団(ざいだん)の助成(じょせい)によって作製(さくせい)しました。