次の 文章を 読んで、あとの 各問に 答えよ。(*印の 付いて いる 言葉には、本文の あとに 〔注〕が ある。)
中学校 一年生の 「わたし」と 後ろの 席に 座る 上野とは、小学生の 時は 互いの 家を 行き来 して 遊ぶ 間柄で あった。中学校 入学後、「わたし」は 陸上部に 入り、上野は 部活に 入らなかった ことも あって、それぞれ 違う 友人の 輪の 中に いる ことが 多く なり、話す 機会が なくなって いた。
教室には 休み 時間の だらけた 雰囲気が 残って いた。わたしも 体を 半分 上野の 方へ 向けて 座って いた。しかし 上野に 話しかけたくても、どう 接して 良い ものか 分からず、話の 糸口を 上手く 摑めないで いた。
上野は 辞書を 熱心に 読んで いた。見るからに 古く、年季の 入った 辞書だった。四隅が ぼろぼろで、頁も 手垢で 黒ずんで いた。箱も なく、白かったで あろう 表紙は ねずみ色と 言って いいぐらいで、金色の 題字は 剥がれて ほとんど 残って いない。しかし そんな 辞書とは 対照的に、それを 読む 上野の 目は 爛々と 輝いて いた。彼の 目に わたしの 姿は 映って おらず、わたしは 不思議と 苛立ちを 覚え、気が 付いた 時には 乱暴に 言葉を 発して いた。
「お前、汚い 辞書 使ってんな。」
言葉が 舌の 上を 通り抜けた 瞬間から、激しい 後悔が 襲った。たしかに 上野の 使って いる 辞書は、お世辞にも 綺麗とは 言い難い 代物だった。だからと いって、他に いくらでも 言いようが あっただろう。わたしは 自分の 声が 周りに 聞こえて いる ことも 十分に 意識 して いた。お前、汚い 辞書 使ってんな。鼓動が 激しく なる 中、顔を あげた 上野と 目が 合った。つぶらな、大きな 目だった。こちらを じっと 見つめかえしながら 彼は 言った。
「うん、母さんが くれたんだ。大学の 時に 買って もらった 辞書なんだって。」
屈託も *衒いも ない 言い方だった。わたしは 彼が 言おうと した ことが 何 一つ 呑み込めずに いた。どうして 上野の 母が 出て 来るのか、ダイガクとは 何か、だから どうだと いうのか、わたしには よく 分からなかった。しかし、何よりも その 口調が わたしの 心を 打った。それは 昔と 変わらない、心を 許した 相手にだけ 向けた 穏やかな 話し方だった。(1)わたしは ろくに 返事も できず、ちょうど 先生が 教室へ 入って きたのを 良い 事に、上野に 背を 向けた。
授業が 始まっても、内容は 頭に 入って 来なかった。こちらを 見つめかえした 上野の 目の 印象が なかなか 頭から 去らなかった。振り払おうと 必死に なる 度に、後ろから 辞書を めくる 音が 聞こえた。時折、紙が 折れたり 頁が 破けたり する 音も 混じって いた。わたしは 一二度 そっと 振り返りも したが、上野は こちらに 気付く 素振りも なく、相変わらず 目を 輝かせながら 辞書を 引いて いた。
わたしは 先ほどの 上野の 言葉に 思いを めぐらせた。上野の 母親には、何度か 会った ことが あった。大概は 彼の 家に いる 時で、二人で 遊んで いると 夕方ごろに どこからか 帰って きて、二言 三言 挨拶を 交わした。いつも 黒い 髪を 後ろに 束ね、忙しそうに して いた。しかし、もっとも 印象に 残って いるのは、彼女が 書斎に 居た 姿だった。トイレを 借りた 帰りの 廊下で、いつもは 閉じて いる 部屋の ドアが 開いて いるのに わたしは 気が 付いた。人の 気配が したので、わたしは 気に なって 覗いて みると、そこに 上野の 母親が いた。書棚に 囲まれた 机に 大きな 本を 何冊か 広げながら、はっと するほど 冷たい 横顔で 座って いた。調べごとか、考え事を して いる 風だった。(2)二重の 目は いつも 以上に 大きく 開かれ、遠い 場所を 追って いた。まるで 目の 前の 本では なく、その 向こう側に いる 誰かを 見つめて いるようだった。
上野の 母の 白い 手が 頁を めくった 音で わたしは 我に 返り、見ては ならない ものを 見た 気が して 黙って その 場を 後に した。自分は なぜ あれほど 動揺 したのだろうか。もしか したら 大の 大人が 勉強を して いる 姿を 見たのが 初めてだったからかも しれない。自宅に 帰ってから、わたしは 自分の 親に 上野の 家で 見た ことを 率直に 告げた。母親からは、上野の 母は 「ガクシャ」だからと いう 答えが 返って きたのを 覚えて いる。
わたしには 「ガクシャ」も 「ダイガク」も 「母さんが くれたんだ」と いう 言葉も、そして 辞書を めくる 音の 意味も うまく 咀嚼 できない まま 授業は 終りを 告げた。自分の 失言の せいも あって、上野との 間に いっそうの 隔たりを 感じ、わたしは それっきり 上野と 会話を 交わす ことが なかった。
秋の 新人戦に 向けて 多忙な 時期でも あり、友人達と 大声で 笑い合う うちに、わたしは 辞書の ことを 忘れ、国語の 授業中に 聞こえる 紙の 音も 次第に 気に ならなく なった。わたしの 未使用の 辞書は 教室の 後ろの ロッカーに 入れられた まま 放置 された。
しばらく 後の 美術の 授業での ことだった。わたしは 試合で 使う 予定の スパイク シューズの 絵を 描いて いた。思い入れの ある 持ち物を 題材に 選ぶように 言われ、わたしは 迷わず 卸し立ての スパイクを 選んだ。青い ラインの 入った スパイクの 靴底からは 八本の 釘が 鋭く 光って いた。
ふと 筆を 休めた 時に、斜め 向かいの 班に 上野が いるのが 目に 入った。わたしの 胸に 思い出したく ない ものが ぶり返して きた。彼の 前に、あの 辞書が あったからだ。改めて 見ると、くすんだ 白い 表紙は 辞書 そのものから ほとんど 取れかけて いる。あんな みすぼらしい 辞書では 不恰好な 絵に なるに 違い ないのに、どうして 題材に 選んだのだろうと 思った。
途端、おそろしく 身勝手で 愚かな 邪推が、つまり、わたしへの 当てつけで あの 辞書を 描こうと して いるのでは ないかと いう 考えが わたしの 頭に 浮かんだ。そう 思った 瞬間に 上野が 顔を 上げ、また 視線が 交錯 しそうに なった。(3)わたしは すぐに 目を 伏せ、絵の具を 混ぜる 振りを して やり過ごした。出鱈目に 色を 混ぜながら、上野が 辞書を 引っ込めて、別の 物を 題材に 選んで くれたら いいのにと 願ったが、上野は 辞書の 絵を 描き続けた。
陸上部の 秋季 大会は 惨憺たる 結果で、自己 ベストにすら 遠く 及ばず、慣れない 靴の ために 足首を 捻って 最後の 跳躍も 叶わなかった。学校 行事も 遠足に 期末 試験と 慌ただしく 続き、あっと いう 間に 冬休みが 訪れた。一年 前は 暇さえ あれば 上野の 家の インターホンを 鳴らしに 行ったが、年末 年始は 部活も さほど なく、わたしは 所在なく 冬休みを 過ごした。
年が 明け、一年生 最後の 学期が 始まった。美術の 時間では、二学期に 描いた 絵が 返却 された。わたしの スパイクは べたっと した 単調な 絵で、どう 見ても それは 地上から 跳び上がる ための 道具に 見えなかった。秋季 大会の ことも 思い出され、わたしは すぐさま 絵を 作業台の 下に 隠した。そして、そのまま 美術室に 絵を 忘れて きて しまった。誰かに 見られると 恥ずかしいので、放課後に 部活に 行く 振りを して こっそりと 取りに 行った。
美術室は 閉まって いた。隣の 準備室にも 先生は おらず、わたしは しばらく 廊下を うろつき、展示 されて いる 作品を 眺めた。廊下には 出来の 良かった 作品が 幾つか 数珠繋ぎに 吊る されて いた。どの 絵も わたしのより 上手く 描けて いたが、だからと 言って わたしと 関わり合いの あるものには 感じられなかった。
職員室に 先生を 探しに 行こうかと 考え、絵の 前を 引き返して いると、その 中の 一枚が 目に 留った。上野の 絵だった。一番 隅に あったので 見逃して いたのだ。わたしは 足を 停め、そこに 描かれた あの 辞書を 見た。辞書は 本物 そのものの様に 汚れが 目立ち、日に 焼けて くすんで いた。絵に 鼻を 近づけたら、古びた 紙の 匂いまで 漂って きそうだった。開かれた 辞書を ぼんやりと した 光の 帯が 包みこんで いた。
忘れて いた 嫌な 感情が よみがえって きそうに なった。しかし わたしは 奇妙に その 絵に 引き寄せられて いた。よくよく 見ると、辞書の くすみや 汚れは、出鱈目に つけられた ものでは ない ことが わかった。まるで 雪原の 足跡のような、その 一つ 一つが 辞書に ついた 人の 指紋の 形を 成して いた。指跡は 見開きの 頁ばかりで なく、辞書の 側面にも びっしりと 描かれて いた。わたしは 上野の 手と 彼の 母親の 姿を 思い出した。(4)上野が 何故 あれほど 熱心に 辞書を 見て いたのか 分かった 気が した。
すると、辞書の 周りに あった、単なる 光の 筋だと 思われた ものが、辞書へ 伸びる 指で あり 腕で、一冊の 書物へ 向かって 何度も 伸ばされた ものの 残像で ある ことに 気が 付いた。細く 白い 幾つもの 手が 辞書を 目指し、あるいは その 遥か 向こう側へ 向かって 伸ばされ、互いを 支え合うように して 幾重もの 層を 成して いた。
唐突に、わたしの なかの 靄が 晴れて いった。上野の 母親の 視線の ゆくえも 理解 できる 気が した。彼女の 姿に 上野が 重なって ゆき、わたしは 受け継がれて いく 人の 営みを 感じずには いられなかった。そう 思うと、わたしの 目には 辞書に 書かれて いる 字すらも 人々の 指跡で 出来て いるように 映った。(5)それに 指を 重ねるように、そっと わたしは 手を 伸ばして いた
。
(澤西 祐典 「辞書に 描かれた もの」に よる)
〔注〕
衒い
ひけらかす こと。