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陳 -
明治 の ころまでは漢詩 を つくる人 が ずいぶん いた わけです。新聞 には漢詩 の欄 が ありましたし、俳句 とか短歌 と同 じように自 作 の漢詩 を投稿 する人 たちが いました。新聞 から漢詩 欄 が消 えたのは いつでしたかね? 石川 -
大正 六年 です。 陳 -
日本人 は ずっと漢文 を書 いて いた わけですね。漢文 が正 本 で、仮名 本 が副 本 でしたから、いつの時代 でも漢字 が先 でした。 -
最初 の日本 の記録 で ある聖徳 太子 の 「十七条 の憲法 」も漢文 です。『土佐 日記 』に 「男 も すなる日記 と いう ものを女 も して みむとて」と いうのが ありますが、男 は日記 を漢文 で書 いて いたんですね。もっとも、紀 貫之 は男 だけれども、仮名 文字 で書 くからには 〈女 〉に ならなければ ならなかった。 -
返 り点 を打 つなど して日本人 は相当 に苦心 して漢文 を使 おうと した わけですから、「二重 言語 使用者 」なんですね。ヨーロッパで ラテン語 を やって いると いっても だいたい似 て いますが、日本 と中国 は別 の言葉 です。アかつて日本人 は、まったく違 う言葉 を日常 レベルで二 つ持 って いたのですから、よほど訓練 が行 き届 いて いたんだと思 います。 石川 -
同感 です。日本 は漢字 を もらったので、日本 の文化 と中国 の文化 は近 いと思 う人 が多 いけれども、実際 は異質 の文化 と いえます。(1)日本 の古典 と漢文 とを車 の両 輪 のように ずっと やって きたと いう特殊性 が あった。 陳 - イもし
日本 が漢字 、漢文 を取 り入 れて いなければ、近代化 は ありえなかったと思 うほどです。 石川 -
日本人 は漢字 を取 り入 れた ことで高 い文化 を持 てるように なった。特 に、江戸 時代 の漢詩 は かなりの レベルに なって います。自由 自在 に つくって、しかも なおかつ日本 の美 意識 が出 て いますからね。 - なぜ、あれほど
高 く なったかと いえば、徳川 幕府 が文 治 政策 を強力 に推 し進 めて いた ことでしょう。武士 の世界 だけれども文 治 を重要 視 した。その結果 、裾野 が ワーッと広 がって山 が高 く なったと いう ことでしょう。民間 には寺子屋 や塾 が たくさん できましたし、各藩 には藩 校 が設 けられた。その中心 が湯島 聖 堂 ですね。 - (2)
陳 -
各藩 も文 治 政策 を取 らないと にらまれましたからね。あまり剣道 ばかり やって いると謀反 でも起 こすんじゃ ないかと怪 しまれた。特 に *加賀 百万石 なんか そうですけど、茶 道 なども含 めて文化 に力 を入 れて いる。 石川 -
江戸 期 に高 い水準 に あった ために、明治 期 も かなり盛 んに漢詩 は つくられましたね。ウむしろ江戸 より盛 んな面 も あった。 陳 -
漱石 は、正岡 子規 を読者 と想定 して漢詩 を つくって います。だから、漱石 が ロンドンに留学 して いる ときに子規 は死 ぬんですが、そう すると、それ以降 の十年間 は つくりませんからね。 石川 -
子規 とは *東 大 の予備 門 時代 に知 り合 い、かなり影響 を受 けます。ところが ロンドンに留学 して中断 しますが、帰国 後 に吐 血 し、健康 を取 り戻 してから たくさんの漢詩 を つくるように なります。 陳 -
小説 『明暗 』を 書く ときに、小説 を 書く とっかかりを つかもうと して漢詩 を つくって いますが、これは自分 の内面 を自分 で見 つめる ための詩 と いう感 じが します。 石川 - 『
明暗 』の時期 の詩 は七言 律 詩 が多 く、禅 味 を帯 びて いますが、表現 は練 られて いて実 に深 い。エある意味 では日本 の漢詩 の到達 点 と いうような感 じも します。要 するに従来 の花鳥 風 月 の漢詩 とは違 う、内面 の告 白 の漢詩 ですからね。また、漱石 の詩 を みて いると、*『唐 詩 選 』から ずいぶんと語彙 や発想 の ヒントを得 て いますね。あるいは自然 と出 て しまうほど身 に ついて いたのでしょう。
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