つぎ  文章ぶんしょう  んで、あとの  各問かくとい  こたえよ。*じるし  いて  いる  言葉ことばには、本文ほんぶん  あとに  ちゅう〕が  ある。)

  わたし  なにごとかを  なす  とき、わたし  意志いし  もって  自分じぶん  その  行為こうい  遂行すいこう  して  いるように  かんじる。また  ひと  なにごとかを  なすのを  ると、わたし  その  ひと  意志いし  もって  自分じぶん  その  行為こうい  遂行すいこう  して  いるように  かんじる。(1)しかし、自分じぶんで」  いったい  なに  して  いるのかを  決定けってい  するのは  容易よういでは  ないし、意志いし  行為こうい  源泉げんせん  かんがえるのも  むずかしい。第一段だいいちだん

  この  ことは  こころ  なか  こる  ことを  れい  すると  より  かりやすく  なるかも  しれない。たとえば、おもいに  ふける」  いった  事態じたい  どうだろうか。わたし  おもいに  ふけるのだと  すれば、おもいに  ふけるのは  たしかに  わたしだ。だが、おもいに  ふけると  いう  *プロセスが  スタート  する  その  最初さいしょ  わたし  意志いし  あるとは  おもえない。わたし  おもいに  ふけるぞ」  おもって  そう  する  わけでは  ない。なんらかの  条件じょうけん  たされる  ことで、その  プロセスが  スタート  するので  ある。また、おもいに  ふけ  とき、わたし  こころ  なか  さまざま  そうねん  自動的じどうてき  展開てんかい  したり、過去かこ  場面ばめん  回想かいそう  して  あらわたり  するのを  かんじるが、その  プロセスは  わたし  おもどおりには  ならない。意志いし  おもいに  ふけ  プロセスを  操作そうさ  して  いない。第二段だいにだん

  こころ  なか  こる  ことが  直接ちょくせつ  他者たしゃ  関係かんけい  する  場合ばあい  かんがえて  みると、事態じたい  もっと  かりやすく  なる。謝罪しゃざい  もとめられた  場合ばあい  かんがえて  みよう。わたし  なんらかの  あやまちを  おかし、相手あいて  きずつけたり、まわりに  損害そんがい  およぼしたり  した  ために、他者たしゃ  謝罪しゃざい  もとめる。その  場合ばあいわたし  自分じぶん  あやまちを  反省はんせい  して、相手あいて  あやまるぞ」  *意志いし  しただけでは  ダメで  ある。こころ  なか  わたし  わるかった画像  いう  気持きもちが  あらわれて  こなければ、他者たしゃ  要求ようきゅう  こたえる  ことは  できない。そして  そう  した  気持きもちが  あらわれる  ためには、こころ  なか  諸々もろもろ  そうねん  めぐる  じつ  さまざま  条件じょうけん  たされねば  ならないだろう。第三段だいさんだん

  ぎゃく  立場たちば  って  かんがえて  みれば  よい。相手あいて  謝罪しゃざい  もとめた  とき、その  相手あいて  どれだけ  わたし  わるかった」  「すみません」  あやまります」  反省はんせい  して  います」  べても、それだけで  相手あいて  ゆる  ことは  できない。謝罪しゃざい  する  気持きもちが  相手あいて  こころ  なか  あらわれて  いなければ、それを  謝罪しゃざい  して  れる  ことは  できない。そう  した  気持きもちの  あらわれを  かんじた  とき、わたし  自分じぶん  なか  ゆるそう」  いう  気持きもちの  あらわれを  かんじる。もちろん、相手あいて  こころ  のぞ  ことは  できない。だから、相手あいて  いつわったり、それに  だまされたりと  いった  ことも  当然とうぜん  かんがえられる。だが、それは  問題もんだいでは  ない。重要じゅうようなのは、謝罪しゃざい  もとめられた  とき、実際じっさい  もとめられて  いるのは  なにかと  いう  ことで  ある。たしかに  わたし  あやまります」  う。しかし、実際じっさいには、わたし  あやまるのでは  ない。わたし  なかに、わたし  こころ  なかに、あやま  気持きもちが  あらわれる  ことこそが  本質的ほんしつてきなので  ある。第四段だいよんだん

  こう  して  かんがえて  みると、わたし  なにごとかを  なす」  いう  ぶん  意外いがいにも  複雑ふくざつ  ものに  おもえて  くる。  いうのも、わたし  なにごとかを  なす」  いう  仕方しかた  しめされる  事態じたい  行為こうい  あっても、こまかく  検討けんとう  して  みると、わたし  それを  自分じぶん  意志いし  もって  遂行すいこう  して  いるとは  いきれないからで  ある。第五段だいごだん

  あやまると  いうのは、わたし  こころ  なか  謝罪しゃざい  気持きもちが  あらわ  ことで  あろうし、おもいに  ふけると  いうのも、そのような  プロセスが  わたし  あたま  なか  進行しんこう  して  いる  ことで  あろう。にも  かかわらず、われわれは  そう  した  事態じたい  行為こういを、わたし  なにごとかを  なす」  いう  仕方しかた  表現ひょうげん  する。  いうか、そう  表現ひょうげん  せざるを  えない。第六段だいろくだん

  わたし  なにごとかを  なす」  いう  ぶんは、のうどう  形容けいよう  される  形式けいしき  もとに  ある。たった  いま  われわれが  確認かくにん  したのは、のうどう  形式けいしき  表現ひょうげん  される  事態じたい  行為こういが、実際じっさいには、のうどうせい  *カテゴリーに  おさまりきらないと  いう  ことで  ある。のうどう  形式けいしき  表現ひょうげん  される  事態じたい  行為こうい  あろうとも、それを  のうどう  概念がいねん  よって  説明せつめい  できるとは  かぎらない。わたし  謝罪しゃざい  する」  ことが  要求ようきゅう  されたと  しても、そこで  実際じっさい  要求ようきゅう  されて  いるのは、わたし  謝罪しゃざい  する  ことでは  ない。わたし  なか  謝罪しゃざい  気持きもちが  あらわ  ことなのだ。第七段だいななだん

  のうどうとは  べない  状態じょうたい  ことを、われわれは  じゅどう  ぶ。じゅどうとは、文字通もじどおり、  なって  なにかを  こうむ  ことで  ある。のうどう  「する」  すと  すれば、じゅどう  「される」  す。たとえば  なにごとかが  わたし  よって  なされる」  とき、その  なにごとか」  わたしから  作用さよう  ける。ならば、のうどう  形式けいしきでは  説明せつめい  できない  事態じたい  行為こういは、それと  ちょうど  つい  なす  じゅどう  形式けいしき  よって  説明せつめい  すれば  よいと  いう  ことに  なるだろうか。第八段だいはちだん

  たしかに、謝罪しゃざい  する  ことは  のうどうとは  いきれなかった。だが、それらを  じゅどう  表現ひょうげん  する  ことは  とても  できそうに  ない。わたし  あるく」  わたし  あるかされて  いる」  えられるとは  おもえないし、謝罪しゃざい  もとめられて  いる  場面ばめん  わたし  謝罪しゃざい  させられて  いる」  くち  したら  どう  いう  ことに  なるかは  わざわざ  うまでも  ない。第九段だいきゅうだん

  のうどう  じゅどう  区別くべつは、すべての  行為こうい  「する」  「される」かに  配分はいぶん  する  ことを  もとめる。しかし、こう  かんがえて  みると、この  区別くべつ  非常ひじょう  不便ふべん  不正確ふせいかく  ものだ。のうどう  形式けいしき  表現ひょうげん  する  事態じたい  行為こうい  のうどうせい  カテゴリーに  うまく  一致いっち  しないし、だからと  いって  それらを  じゅどう  形式けいしき  表現ひょうげん  できる  わけでも  ない。第十段だいじゅうだん

  だが、それにも  かかわらず、われわれは  この  区別くべつ  使つかって  いる。そして  それを  使つかわざるを  えない。どうしてなのだろうか。もう  一度いちどのうどう  ほうから  かんがなおして  みよう。(2)われわれは、わたし  なにごとかを  なす」  いう  ぶん  もつ  曖昧あいまいさを  指摘してき  した。たとえば  わたし  あるく」  しめして  いる  事態じたいとは、実際じっさいには、わたし  もとで  こう  実現じつげん  されて  いる」  ことだ。第十一段だいじゅういちだん

  では、この  ふたつは、いったい  どこが  どう  ずれて  いるのだろうか。わたし  あるく」  わたし  もとで  こう  実現じつげん  されて  いる」  決定的けっていてき  ちがいは  なんだろうか。わたし  あるく」から  わたし  もとで  こう  実現じつげん  されて  いる」  いたら、なに  のこるだろうか。第十二段だいじゅうにだん

  のうどう  形式けいしきは、意志いし  存在そんざい  つよ  アピール  する。この  形式けいしきは、事態じたい  行為こうい  出発点しゅっぱつてん  わたし」に  あり、また  わたし」こそが  その  原動力げんどうりょく  ある  ことを  強調きょうちょう  する。その  さいわたし  なか  想定そうてい  されて  いるのが  意志いし  ある。つまり  わたし  あるく」  わたし  意志いし  存在そんざい  喚起かんき  する。しかし、わたし  もとで  こう  実現じつげん  されて  いる」  そうでは  ない。第十三段だいじゅうさんだん

  意志いしとは  じつ  身近みじか  概念がいねん  ある。日常にちじょうでも  よく  もちいられる。だが、それは  同時どうじ  なぞめいた  概念がいねんでも  ある。意志いしとは  一般いっぱんに、目的もくてき  計画けいかく  実現じつげん  しようと  する  精神せいしん  はたらきを  す。意志いし  実現じつげん  かって  いるのだから、なんらかの  ちからあるいは  原動力げんどうりょく  ある。ただし、ちから  ないし  原動力げんどうりょくとは  いっても、制御せいぎょ  されて  いない  しの  しょうどうのような  ものでは  ない。意志いし  目的もくてき  計画けいかく  もって  いるので  あって、その  意味いみ  意志いし  意識いしき  むすびついて  いる。意志いし  自分じぶん  周囲しゅうい  さまざま  条件じょうけん  意識いしき  しながら  はたらきを  なす。おそらく  無意識むいしき  うちに  なされた  ことは  意志いし  もって  なされたとは  なされない。第十四段だいじゅうよんだん

  意志いし  自分じぶん  周囲しゅうい  意識いしき  しつつ  はたらきを  なす  ちから  ことで  ある。意志いし  それまでに  られた  さまざま  情報じょうほう  もとに、それらに  うながされたり、てられたりと、さまざま  影響えいきょう  けながら  はたらきを  なす。ところが  不思議ふしぎ  ことに、意志いし  さまざま  ことを  意識いしき  して  いるにも  かかわらず、そう  して  意識いしき  された  事柄ことがらからは  独立どくりつ  して  いるとも  かんがえられて  いる。  いうのも、ある  人物じんぶつ  意志いし  よる  行為こうい  なされるのは、その  ひと  自発的じはつてきに、自由じゆう  選択せんたく  もとに、みずからで  なしたと  われる  行為こうい  ことだからで  ある。だれかが  「これは  わたし  自分じぶん  意志いし  おこなった  ことだ」  主張しゅちょう  したならば、この  発言はつげん  意味いみ  して  いるのは、自分じぶん  その  行為こうい  出発点しゅっぱつてん  あったと  いう  こと、すなわち、さまざま  情報じょうほう  意識いしき  しつつも、そこからは  独立どくりつ  して  判断はんだん  くだされたと  いう  ことで  ある。第十五段だいじゅうごだん

  意志いし  物事ものごと  意識いしき  して  いなければ  ならない。つまり、自分じぶん  以外いがい  ものから  影響えいきょう  けて  いる。にも  かかわらず、意志いし  そう  して  意識いしき  された  物事ものごとからは  独立どくりつ  して  いなければ  ならない。すなわち  自発的じはつてき  なければ  ならない。第十六段だいじゅうろくだん

  (3)意志いし  自分じぶん  以外いがい  ものに  接続せつぞく  されて  いると  同時どうじに、そこから  切断せつだん  されて  いなければ  ならない。われわれは  そのような  じつ  曖昧あいまい  概念がいねんを、しばしば  事態じたい  行為こうい  出発点しゅっぱつてん  き、その  原動力げんどうりょく  なして  いる。第十七段だいじゅうななだん

こくぶん  こう一郎いちろう  中動態ちゅうどうたい  世界せかい  よる)

ちゅう

プロセス画像過程かてい

意志いし  する画像物事ものごと  ふか  かんがえ、積極的せっきょくてき  実行じっこう  しようと  する  こと。

カテゴリー画像範囲はんい